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「吏樹君、転校するんだって」
「……ぇ?」

結びの糸


『吏樹君、転校するんだって』
 なんど思い返しても、同じ言葉、同じ意味。おぼつかない足取りで帰路につく少女。まっすぐに下ろした髪は、おそらく、校則によると結わえなければならない長さ。
「うらむよ彩花」
 友の言葉が、突き刺さる。聞きたくなかった。聞いてしまえば、もう、期限が来てしまう。期限があることを知らなかった振りはできない。
『で、いつ告白するの?』
 楽しそうに笑う友の言葉に、絶句した。
「むりだよー」
 今までも、これからも。

 次の日、学校に向かう足取りが重い。それでも教室に向かえば――開けた扉の中は、騒然としていた。中心にいる彼は――困ったように笑っていた。
「おはよ、結」
「彩花」
 ポンと、真横から肩を叩く友。
「すごいよね」
 彼女の言葉に、力なく頷くしかなかった。
 彼の席は私の前で、その彼の周りに人だかりが出来ていて。私は席につけない。彩花の声に曖昧に答えていると、予鈴のチャイムがなった。
 名残惜しそうに、また、まだ何か言い足りないとクラスメイトがみんな席に向かう。その遠ざかる姿と逆に、私は彼に近づいた。
「おはよう」
「おはよ」
 いつもの挨拶のはずなのに、どこか、そっけない私。それに気がついたのは、彼の顔が少しだけ、曇ったように見えたからで。
(違う――)
 なのに言葉は出なくて、先生が入ってきて彼は前を向いてしまった。
(違う)
 笑顔で、返事を返せればそれでいいのに。せめて普通に――
「みんなもう知っていると思うが――」
 先生が切り出した話に、みんなの視線が向かった先。
「西野はあと一ヶ月で転向する」
「親の都合なんで。と言っても、都会に行くのは楽しみかな?」
 彼の明るくおどけた挨拶に、みんな笑った。


 始めて彼のことを知ったのは、高校一年の時、違うクラスだった彩花の情報。なんでも一年の中で一番かっこいいのは誰かって話で、西野 吏樹(にしの りき)の名前が上がった。
 私はクラスが違うので、誰だかわからなくて――しかもその日、彼はお休みでいなくて。結局顔を見ることは出来なかった。
 それが、彼を知った最初の話。
 彼と会った最初は――

「はい」
「えっ?」
 帰る途中で定期を落とした事を、駅についてから気がついた私。泣く泣く学校に戻って、校門を潜るところだった。
 校門の横に人がいるなぁ、誰か待ってるのかなぁと思ったけど、その時の私は半年分買った定期を失くした!! とかなり焦っていたので、人の顔まで見ていなかった。
「……違うの? 佐倉 結(さくら ゆい)さん?」
「わっ私です!」
 がっかりした彼の顔に、自分の名。あわてて返事をした。すると――
「よかった。はい」
 うれしそうに笑った彼が差し出しているのは、自分の定期券だった。一瞬固まって、それからあわてて受け取った。
「これ」
「落ちてた。大事なものだろうし」
「うん」
 反射的に頷いた。
「よかった」
 もう一度彼はそう言って、自転車にまたがった。
「じゃぁね」
「あっありがとう!」
 定期券を受け取ってほっとしている、そんな間だったので反応が遅れた。
 まさか、帰らずに戻ってくるのを待っていたのだろうか。彼は自転車通学なのだから、待っていなくても良かったのに。
 あわててお礼を言った頃はもう、彼は自転車で学校を後にしていた。
(待ってて、くれたんだ)
 職員室に預けてもよかっただろうに。ここで、戻ってくるだろうと。もし私があきらめて切符を買っていたら、どうしたのだろう。

 この時の私はそんな事を考えていて――彼がその一年の間で噂の人だとは知らなかった。
 だけど私は確かにこの時、彼の笑顔に身を固めるほど引かれたのだ。

 そして今度こそと彼を盗み見たのは、次の日だった。
「ほらほらっあそこ!」
「彩花、どれ?」
「結! 見てわからないの!!?」
「そんな事言って――」
 はっと、サッカーをする一年男子の集まりを見て目を見張る。昨日、定期を拾った彼がいる。
「ねぇ、彩花。あそこ、今ボール蹴ったのって――」
「結、あんた話聞いてた? それが吏樹君だって!」
「うそ!?」
 しばらく、びっくりしていた。
「なんで知ってるの?」
 そして、彩花に問い詰められた。私は、白状しなかった。だって、大切な記憶だから。

 それから吏樹君の話は徐々に盛り上がって、クラスの女子の間でも、部活の時にも話題に出るようになった。
 私はうん、そうだねと頷きながら――告白したいと言う彼女たちの言葉を、どこか止めたいと思いながらも止められない。
 そんな曖昧な気持ちで、日々をすごしていた。ただ、見ているだけ――

「結、あんた告白しないの?」
「彩花!」
 そんな淡い気持ちで満足したつもりになっていた私は、彩花の鋭い一言に身を堅くした。
「だって、あんた、吏樹君しか追ってないじゃない」
「むりだよー」
 だって、彼がふった女の子の噂、聞いてるでしょう。
「なんか、告白してくる子ほとんどふってるみたいね」
「うわー」
「喜びなさいよ」
「だって、自分がその一員になるかと思うと」
「告白すらしてないのに何言ってるの」
「……いじめる」
 サッカー部のマネージャーに志願する子、手紙で、アドレスを聞き出してメールで告白する子、話はいろいろ聞くが、彼がオーケーする子は、いなかった。

 そして、二年になった。結局彼はまだ誰とも付き合っていなくて、そして私は、クラス替えの張り紙を見て固まった。
 2−6のクラスには、西野 吏樹と、佐倉 結と、今野 彩花の名前が書いてあった。
 一学期は、何もできなかった。ただ彼と同じクラスであると言うだけで、同じ委員に立候補する事もできなかったし、近くの席になる事もなかった。
 でも、同じクラスの中で見れる彼の姿は新鮮で、まじかで聞く声も。
 体育祭は、リレーを走る彼の名を、クラスメイトに混じって呼びながら応援した。

 そして、二学期――
 私は、彼の席の後ろになった。
 席順は男女交互になるようになっているので、可能性として低くても、ありえることだ。私は一番うしろ、彼はその前。
「佐倉?」
 席替えの途中、机の移動の時呼ばれた名に驚く。
「よろしく」
 笑顔で、言えたと思う。彼が自分の名前を知っていた事に、驚きながらも。
 でも、1クラス40人もいないのだから。覚えられる範囲な気もする。

 それから、私の吏樹君観察がはじまった。
 例えば、眠そうにしてる時とか、つまらない授業の暇の潰し方とか、よく忘れるものとか、ちょっとしたしぐさとか、いろいろ。
 黒板を見ようとして見えるのが、彼の背中だ。
 ちょっと黒板が見えにくかったりするんだけど、気にならない。
 プリントを集めるとき端に寄せるか手渡してくれたり、プリントも肩越しじゃなくて振り返って渡してくれたり。
 とっても、幸せだった。

「甘いわ、結」
 このズバッときっつい一言で私の心に突き刺さる彩花。
「あんた、この機会をもっと利用したらどうなの?」
「してるよー」
「それが、植物のように観察日記をつけることなの?」
「………」
「神崎さんを見なさい! あのもうアタックを!!」
 確かに、ライバルは多い……多いのだ。筆頭は、神崎 真里菜(かんざき まりな)さん。吏樹君の右隣で、猛烈アタックだ。
 教科書を忘れたと言って机を寄せたり、何かと頼ったり。
「だってー……」
「だってじゃないわよ!!?」
「うっ」
 言葉につまって、何も言えない。
 そしてまた、同じなのだ。隣の席でもうアタックをかける神崎さん。彼女もまた、同じなのだ。彼を思う気持ちが。
 はぁと。ため息をつく。吹奏楽部の活動に向かう彩花を見送って、帰ろうと思い……ない。
「あ」
 定期がない。かつての失敗を反省して鞄と定期をチェーンで繋いでいたのだが。見事に切れている。
「……ぅわー」
 二年になっても、教室は四階だ。一階まで来て気がつくなんて。がっくりと肩を落として、また階段をのぼった。

「……あれ?」
 閑散としている廊下を進むと、教室の電気がついていた。まだ人がいるんだと思いながら、扉を開ける。
「……吏樹君?」
 彼が、いて、何かを掲げていた。
「佐倉?」
 彼の声に、自分は名前で彼を呼んでいたことに気がついた。ほとんどしゃべった事もないのに。
 かっと、赤くなる。それを隠すようにうつむく。
 それ以上彼も何も言わないので、そっと顔を上げて……彼が持っているものに目を向く。
 ピンク色で見覚えのある四角いもの――定期いれ。
「……それ……」
「よく落とすよな」
「覚えてっ」
「佐倉って、けっこうまぬけなんだな」
 彩花と同じこと言うなんて!!
「き、気にしてるのに」
 がっくりと沈む。
「嘘だって、ごめん」
 そんな言葉に、浮上する。
「もう」
 たわいない会話のはずなのに、どきどきと心臓がうるさい。ほほが熱い。動きがぎくしゃくして、鈍い。
「はい」
「ありがとう」
 机の下に椅子をしまって、それに寄りかかるように立っていた吏樹君に近づくと、定期を渡される。
「ずっと前にも、こうしてくれて、ありがとう」
「いいや」
「職員室に、預けてもよかったのに」
「……そうだな」
「あっでも! 嫌じゃなかったし! 嬉しかったの!! それに!」
「わかってるって、なんか、佐倉ってずいぶんしゃべるんだな」
 なにか攻めているみたいになってしまって、あわててカバーする。だって、嬉しかったから。考え込んだ吏樹君は、意外だと別のことを言ってきた。
「り、吏樹君だって――!」
 しまった。また名前で呼んでいる。まともにしゃべるのははじめてなのに!!?
 ばっと口を押さえて押し黙る。
 妙な沈黙が、降りた。
「……佐倉(サクラ)って」
 しばらくして、口を開いた吏樹君の言葉にコクコクと頷く。
「下の名前みたいだよな」
 頭の中がパニックの私は、とにかく頷いた。
「下の名前、なんていうんだっけ?」
「ゆ、結!」
「結」
 力いっぱい答えた私の声に続いて――彼が私の名前を呼んだ。
 低い声で呼ばれて、鼓動の音が高くなった。耳に響いた言葉が、しみこむように、響き渡るように――
「り、……西野、君?」
「いいよ吏樹で、呼びやすいんでしょう?」
「うん!!」
 それからしばらく、二人で話をした。内容は、先生の悪口だったり、文化祭の事や、部活の事、それから、兄弟のこと。
 でもたった一つ、彼が答えなかったことがあった。それは、なぜ、今まで教室にいたのかと言う事。
 それが、転校の事に繋がっていたのだと、その時の私は思いもしなかった。
 だって、その次の日、彼は私におはようと、言ってくれたから。
 彼が寝てしまった授業が終わると、振り返ってノートを見せてくれというのだ。いつもは、神崎さんが自主的に見せているのに、その話をさせる間を与えないで。
 彼が振り返って私に話しかけることも、私が彼に話しかけることも、だんだん増えていった。
 ただ、呼び方は佐倉なので、私は西野君と呼ぶことに苦労した。

「ゆーーいーー!!!」
 くると思ったが、放課後になって彩花がタックルしてきた。
「なんなの!? どうしたのよ!!?」
「わかんない……」
「ついに告ったのね!!?」
「それも違」
「どういうことよ!?」
「わかんない」
「あんた、いいの? 神埼さんがかなりこわーい目をして睨んでいるわよ。あれは横入りする気満々ね」
「でも……」
「結。神崎さんが彼女になったら、あんた絶対はじかれるよ。それに、席替えだってあるんだからね」
 今は、彼の後ろだから。だから、話が出来るだけで、席が離れればまた、一言も会話しなくなるのかもしれない。
 その恐怖は、あった。
 けれど、ただ楽しくて、嬉しくて、今のままがいいと望んでいた。いつか離れる事は、考えないようにしていた。
 今のままが、幸せだったから――
 それに、まだ、あと一年ある。だから、もう少しこのままで、告白するのは、あとでと考えていた。
 そう、思っていたのに――


「転校するなんて……」
「ま、これで女を振り続けていた理由がわかったわ」
「そうだけど……」
「いいの? 結。神崎さんなんて告白するよ、絶対」
 確かに、彼女のアプローチが目に見えるようになっている。今までの数倍。
「私――」
 今になって気がついた。あの日、一人で教室にいた吏樹君の気持ち。そして、もうこの場所を離れる事を知っていた吏樹君が相手にしてくれていたって事は――
「ゆ、結!?」
「無理だよ……彩花」
「結!?」
 ぼろぼろと、涙が落ちてくる。
「だって、だって」
 だってそうじゃない。
「もう、この場所からいなくなるって知ってて、相手をしてくれてたんだよ?」
 なんとも思ってないって、事じゃない――
 だって私なら、一つでも未練が少なくなるようにするもの。

 彩花が、部活をサボってまで私を家まで送ってくれようとしたけど、断った。私は帰宅部で、彩花は吹奏楽部。コンクールもあるんだし、帰るだけだもん。
 彼が渡してくれた、定期が目に入る。顔は洗ってきたけど、たぶん目が赤い。
 電車の中ではうつむいて、極力前を向かなかった。

 次の日も彼は囲まれていて、私の席が埋もれていた。それを遠めに見ていると、ふと吏樹君の視線が動いて、私を見た。
 吸い込まれるような、瞳に映るもの。
 しかし、彼はまた誰かに呼ばれたように視線を逸らした。
(な、んだろう)
 どきどきしながらも、深呼吸する。朝練が長引いたのか、まだ彩花は来ない。チャイムの音が、聞こえてきた。ついでに、廊下をばたばたと走る音。
 私は、自分の席に向かう。
「おはよ」
「おはよう」
 鏡の前で、笑顔の練習をしてきた。だからかもしれない。今日は先に、声をかけた。席についてしまえば、彼は私の前だから。振り返る事はしない。
 大丈夫。私はいつもと同じ、この彼の背中を見つめるだけ。

「神崎さん、本気ね」
 昼休みなって、一緒に食事をしていた彩花が呟いた。ちらりと、私もそちらに視線を向ける。
 何人かの男子の集まりに混じって、吏樹君の隣を陣取っている。それは、授業の合間の十分休みの時も同じで。
「そう」
「結」
 彩花の声は、非難しているようで、どうしていいかわからないようで。私は静かに笑った。
 その笑顔を見て、彩花は別の話題をふってきた。

 昼休みもミーティングだと言って音楽室に向かう彩花を送って、私は自販機に向かった。ペットボトルのお茶を買って教室に戻る途中、担任の中島先生に声をかけられた。
「すまないが、これを運んでおいてくれないか」
「はい」
 先生は歴史の教師で、次は世界史だ。二枚の地図と資料を渡されて、ちょっと多いなと思っていると――
「ぁあ西野! お前も手伝ってくれ!」
 先生の声に、心臓が飛び出そうなくらい驚いた。地図を持って資料を見つめたまま顔が上げられない。
 その間に、先生は彼にも同じことを言って職員室に戻って行ったらしい。
「ったく、うちの担任は生徒使いが荒いよな」
 気がつくと、真横に彼がいて、そうぼやいた。私は、まだ顔が上げられない。
 と、持っていた地図が奪われた。
「――ぁ」
「こっちは俺が持つから、結はそっちのプリント」
「はい……」
 と、返事をしたあとに、はっと気がついた。今――
「行こう、昼休み無駄にしたくないしな」
 顔を上げるのと、彼が進むのは、同時ぐらいだった。
「はい」
 あわててプリントを抱えて、彼と歩き始めた。後ろではなくて、隣でもなくて、一歩遅れて、斜め後ろに。
 その微妙な距離も変わらず、口も開かず、気まずい空気のまま教室まで戻った。
 教室に戻ると、地図を置いた吏樹君が私のプリントを持って教壇においてくれる。もう2メートルもないのに。どうして。
 やめて、もう最後なのに、優しくしないで。
「これでよし」
 そう言って彼が、私を振り返る。
「吏樹〜なにしてんだよ」
「最後だからって中島がこき使ってくれんだよ」
 やってきた別のクラスメイトが、彼を引っ張って連れて行く。彼らはまた集まって、会話で盛り上がり始めた。
 私はしばらくぼんやりとそれを見送っていると、吏樹君が一瞬、私を見た。あわてて、私は席に戻った。
 その様子を、神崎さんが睨みつけるように見ていたなんて、知らなかった。

 その日を境に、私と吏樹君はまたもとのように――よくしゃべるようになった。そう、彩花が何かあったのかと睨んだあの時と同じように。

「神崎さん、そろそろ動くんじゃない?」
「え?」
「告白するって事」
「……吏樹君に?」
「結、気がついてないでしょうけどね。結と吏樹君が喋っている時に睨んでる顔、見せてあげたいわ」
 でも私は、彼女のように、思いを告白する気はない。それを思えば、神崎さんが羨ましくも会った。
「いいな」
「結! そんな人事で済ませるつもりなの!?」
 久しぶりに、彩花の渇が飛んだ。

 中島先生の計らいで、吏樹君のお別れ会を教室で放課後にすることになった。それが決まったのは、彼が引っ越す一週間前。
 もう、彼が引っ越す事は周知の事実になっていて、でも様子は変わらなくて。転校が決まった時のほうが教室の中は騒がしかった。
 でも、もう決まった事に慣れきってしまった。
 何人か、彼に告白したと言う噂を聞いたのは、その頃だった。
「神崎さん、ふられたみたいよ」
「そうなんだ」
「結。あんたこれでいいの?」
「……うん」
「もう、あと一週間切ってるのよ」
「あとはお別れ会だね」
 そして、その日を境に、彼の背中を見ることも、教室で挨拶を交わすことも、校庭でサッカーをする姿も、見られないのだ。


「かんぱーい!」
 黒板に大きく、西野吏樹お別れ会の文字。残った黒板の隙間を埋めるように、みんなの激励の言葉。また会おうねとか。元気でとか。
 それに、写真。体育祭のもの、文化祭もの、いろいろ。
 吏樹君はみんなに囲まれていて、とてもじゃないけど近づけない。紙コップに入ったオレンジジュースを握り締めたまま、遠巻きにしていた。
「頑張るね。神崎さん」
「彩花」
 輪の中心の吏樹君の隣に、変わらずいる。その人。
「ふられた女は引っ込んでろっての」
「……」
 確かに、ちょっと思う。
 彼に渡す色紙にも、気の利いたことは書けなかった。無難で、ほとんどみんなと一緒。神崎さんは、力入ってたけど。
「ちょっと、」
 彩花に断って、教室を出る。

 流しを流れる水音が、耳に入る。遠く、教室のざわめきが聞こえる。それを遠ざけてくれる。
 洗って、濡れた手はシンクを握り締めていた。
 ただ、水量多く流れる水を目で追う――
「結?」
 声にはっとすると、横に吏樹君が立っていた。
「り……」
 体は正面を向いたまま、首だけ向ける。苦笑した利樹君が近づいてくる。私のかわりに蛇口をひねって、水を止める。
「いないと思ったら」
「別に、いいじゃん」
 見つめていた視線を逸らす。冷たい言葉が、口をついて出ていた。私なんかいなくたって、同じだと思う。だけど気にかけてくれていたのかと思うと、嬉しい。
 嬉しい。
「元気で」
 利樹君の言葉に、はっと顔を上げる。
 もう、最後なんだ。本当に、最後。
 手が震える。のどが絡んでうまく声が出せない。利樹君はそんな私の様子をどう見たのか苦笑した。
「さよなら」
 それだけ行って、私に背を向ける。
 いっちゃう!
「待って!!」
 彼が、止まった。そしてゆっくりと振り返る。
 鼓動の音がうるさい。大きな声に息が上がる。止まった吏樹君が振り返るまでの間が、とてもとても長く感じて――
 のどが渇いて、声がうまく出せない。だけど伝えたい。私は、私は――
「り」
「吏樹! なにしてんだよ!? 主役がいないと意味ないだろ!」
 突然割り込んだ声に、パリンと張り詰めていた何かが砕ける音を聞いた。
「――ぁ、ああ」
 どこか歯切れ悪く答える吏樹君をつれて、クラスメイトの男子が何人か集まってくる。その中の一人、中川君が、私に気がついた。
「おい」
 あわてて他の男子に声をかけるも、最初に声をかけた浜野君は気がつかず、吏樹君をつれて教室に戻っていく。
 中川君は私に視線を向けながらも、吏樹君を引っ張る彼らに続いて教室に戻っていく。
 しばらくして、教室からこれが最後だといわんばかりの、歓声が聞こえてきた。
 流しのある廊下に一人取り残された私は――もう涙も出てこなかった。

 クラス全員に見送られて学校を後にする吏樹君。彼は自転車に乗ったまま、最後の下校についた。
 彼はもう、私を見てはいなかった。
 私は、まだ、吏樹君がいなくなったのだという事を、理解していなかった。認めていなかった。
 認められなかった。


「……?」
 ふっと、目が覚める。自分の部屋で、自分のベッドの上で寝ていた。
 昨日、吏樹君を見送ってからのことが、よく思い出せない。いつ家に帰ってきたのだろう? まるで夢の中にいるようだ。
 時計を見ると、もう十時を回っている。土曜日だからなと、自分で納得する。
 ふと携帯を見ると、メールと電話の着信を示すランプが点灯していた。
「……彩花?」
 表示を見て、ひとまず電話をすると、電話の向こうから怒鳴り声のような声が聞こえた。
「結!!」
「彩花?」
 どうしたのだというのだろう。
「吏樹君、今日のお昼に出発するんだって!」
「……ぇ?」
「急いで! まだ間に合うでしょう!!」
 最後の、チャンスだった。

 とにかく必死で、足を動かした。祈るような思いで電車に飛び乗って、学校に向かう。吏樹君の家は学校から自転車で五分だと聞いている。詳しい場所は、彩花がメールで地図を送ってくれた。
 携帯と定期しか持たずに、飛び出してきた。
 最寄り駅から徒歩十分と言う学校までの道を、走る。
 それから、いつも吏樹君が向かう道に向かう。
 ただただ、祈った。

 中央分離帯のある大通りに出て、メールにある地図を見ながら進む。
 必死に携帯と前を向いていた私は気がつかなかった。反対車線を通る。聞いた事のある引っ越し屋の名前の描かれたトラックに。

 吏樹君の家らしき場所がある通りを走っていると、遠くに何人かの人が見えた。
 走って走ってそこまで行くと、そこにいたおばさんたちが驚いた顔をした。
「どうしたんだい?」
「あのっ……西野君家って……」
 息も絶え絶えに、問いかける。
「西野さん!?」
「今行ったばかりだよ!?」
「ぇえ!?」
 ここがそうだよと、無人になった家を示される。それを見て、うそ……と言葉がもれた。
 私は、間に会わなかったのだ。
「西野さん。準備が出来たからって予定を繰り上げてね」
 時間を教えてもらうと、十一時半だった。
 そんな、と、コンクリートにひざをつけて、彼が進んでいった方向を教えてもらう。皮肉にも、自分が走ってきた道だった。
 どこで、すれ違ったのだろう。これで最後だったのに。
 絶望に落胆した私は、もうおばさん達の言葉は聞こえてこなかった。ただただ、後悔がよぎる。

「吏樹君がしぶっていたから、不思議には思ったんだけど……」

 そう、そう言ったおばさんの言葉も、慰めの言葉も、すべて。


 月曜日に、いつものように学校に行った。いつもと同じ道、いつもと同じ教室。いつもと同じ席。
 彼がいなくなったという、実感がわかない。でも、確かに目の前で見ていた背中は、ない。
 彼の席はそのまま、そこに人がいたと言う事実は、消えている。でも、私は覚えている。だからだろうか。二度と彼が座らないはずの椅子が、座る人を待っているように見える。
「結」
「なーに?」
 なぜか、彩花がとても不安そうな顔をしている。どうしたんだろう。私、笑っているよね?

 なぜか部活をサボろうとする彩花をなだめて、いつものように音楽室の前まで見送って、下駄箱まで来る。そして、気がついた。
「ない」
 今度は紐にしたのに、また定期がない。
 はぁと、ため息をついて――はっと顔をあげて、走る。四階まで続く階段を駆け上る。
 吏樹君だ。きっと吏樹君が――
 はぁはぁと息を吐きながら、ほほは赤く高揚する。
(吏樹君、吏樹君、吏樹君!)
 はぁはぁと、教室の前で息を整えて、期待に胸を膨らませて――
「吏樹君!」
 思い切り、扉を開け放った。
『結』
 声が――

 薄暗い教室に、彼の影を求めて――残像は消えた。
 しんと、静まり返った教室。誰もいない。
「吏樹、くん?」
 ふらりと足を向けて、机に向かう。
 無残に切れた紐と一緒に落ちた、ピンクの定期入れ。
「……」
 もう誰も座らない、机と椅子。彼がいた時におきっぱなしになっていた教科書は、ない。
「……ぁ」
 もう、彼は二度とこの場所には来ないのだと、いないのだと。現実を突きつけられた。
「ぅわぁぁああーー!」
 ようやく、涙が流れた。


 しゃくりあげる時間が、とても長い。涙も、いつか枯れるのだと思うと、悲しい。そんな時、教室の前の扉が開いた。
 眩い廊下の光を背に受けて、教室に入ってきた影に目を向く。
「間に会わなかったのね。せっかく、教えてあげたのに」
「神崎、さん?」
「こんなにいい女をふるなんて、ありえないと思わない?」
 にこりと笑った彼女の笑顔が、どこか寂しげだった。
「神崎さん、どうして……」
 呆然と言ってしまった。彼女が、彩花に伝えたのだろうか。吏樹君の引っ越しの予定を。
「大変だったんだから、聞き出すの。私しか知らないのよ」
 いつも強気な彼女の声と、どこか違う。
「どうして」
「だって、悔しいじゃない。ライバルに情報を流すなんて。でも、もう私はふられているし」
 彼女の、瞳が揺れた。
「どうして、なんて、私も知りたいわ」
 彼女の、言葉が途切れた。
「神崎さん」
「繋ぎとめておきたかったのに!」
 彼女も、同じなんだ。彼を思う気持ちは――
「せっかく教えてあげたのに。せめて会うくらいのことはしてよね!!」
 泣き出した彼女の言い分は勝手だ。
 だけど――
「ごめんなさい」
「私、あなたのそういうところが嫌いよ」
 ライバルに謝るなんてと言いながら、神崎さんの肩を抱いて寄り添った。しばらく二人でまた、泣き続けた。
 神崎さんは、泣くだけじゃなくて吏樹君への罵倒も入っていたけど。



 そして――
 一年と数ヵ月後、私は大学生になった。
『結! 元気? もう専門ちょー忙しいだけど!? っていうかカラオケに行こう!』
 彩花のメールに微笑みながら、返信に空いた日にちを書かないと考える。
 都内の大学に進学した私は、通学一時間半という時間をかけて、大学生生活を送っている。
 ついでにいうと、神崎さん……真里菜とも時々、メールしている。高校時代に一緒になって一度遊んだ。
 自分でも意外なのだが、彩花にも驚かれた。彼女は女子大に行っている。なんか、壮大な目標を掲げていた。
 なんか、いい女は結婚するだけが人生じゃない!! とか叫んでた。

 入学して一ヶ月と言う新一年の私は、学内の地図を覚えるだけでもう必死だ。新しい友達も、数人できた。
 今日は二限からだったが、少し早くついてしまった。なのでちょっとキャンパス内を散策する。
 同じように登校してきたらしい学生もいて――

「吏樹!」
 女の人が呼ぶ声に、はっとして振り返った。
「宮島さん」
「もう! 愛でいいって言ってるのに!」
「……」
 困ったように笑う彼の腕に、自分の腕を絡める女――それを振り払おうと必死になっているのは――
「吏樹、くん」
 見間違うはずは、なかった。
 また背が伸びたような彼は、あの頃と変わっていて、変わらなくて。
 変わらなければならないのは、私。
「ねぇねぇ! 一緒に授業受けよう!」
「宮島さん、友達がいるだろう? それに、宮島さんの学科は俺と同じ授業受けなくてもいいんじゃ……」
「いいでしょう! どの教科とってもいいんだから」
「そうだけど」
「吏樹〜熱いね〜」
「おい、助けろよ」
 彼の友達らしき男の子が、彼の後ろから合流して小突いている。
「いいじゃん。もてもてで……」
 その小突いていた男の人が、すたすたと近づいてくる私に気がついた。女の人の相手をしている吏樹君は、まだ気がついていなかった。
「吏樹君」
 声が届くところ、彼の前まで来て、声をかけた。ようやく腕を引き剥がした吏樹君が、私を見た。
「……結?」
 私は、笑った。きっと、とても嬉しくて、とても誇らしくて、とても素敵な、笑顔で。
 ほっとして、息をすった。すっとその目を見つめて、口を開いた。
「あのね。あの時の続きを、聞いてくれる?」
 それでも緊張して、少しだけ声が震えた。大丈夫、泣かないで、あの時の私。きっと、叶えるから。
 思いも伝えられないような、悔しさに泣く事も出来ない私は、今日この場でさようなら。
 驚いたように、吏樹君が目を見開いている。知り合い? と、隣にいた男が呟いている。腕に絡もうとしていた女は、きっと、私を睨んでいたらしい。でも私は、吏樹君しか見ていなかった。
 しばらくして、私の震えも、決意もすべて受け止めたように、吏樹君も静かに笑った。
「いいよ」



 今日、家に帰ったら二人にメールを送ろう。嬉しくて、泣きそうな報告を。
 たぶん、一番に電話をくれるはずの彩花は、驚くだろう。そして喜んでくれるだろう。それから、きっとからかわれるんだろう。でもいいや。
 真里菜からは、喜びと悔しさの混じった愚痴を聞かされるだろうから。おとなしく聞いていよう。
 二人とも、祝福してくれるから。


― END ―




Free Will 66666Hit リクエストです!
「現代」で「片思い」で「切ない」で「ジレジレ」で「ハッピーエンド」だそうです。
リクを見た時にパソコンの前で固まった歌夜を想像してください。
軽く気が遠くなりました。
とりあえず現代ものって事で、まぁ……学生?
片思いと切ないはどうにかするとして……ジレジレってなんですかー?と途方にくれるというか。
まじっすか的な。
とりえず、こんな感じになりました〜☆
なんかまともに現代ものって、はじめて書いた気がする……
気に入らなければ言ってください(ホントに)。
これは違う!&これがない!とかご指摘を頂ければそこを強化して書き直します。

素材「Atelier Black/White」様
企画部屋