このお話は、エルディス編―王城にて「その言葉」読破後にお読み下さい。出ないと完璧にネタバレになります。






近く遠く見守る瞳



 飛び出していった馬鹿息子が帰ってきて、連れてきた娘。
 初めて見た時、とても気丈で、その瞳が揺らぎなくて、存在が強かった。

 ただ―――もろい。そのすべてを反転させる危うさを持ち合わせて。

 どこに立っているのかわからないというように、ひどく不安定な娘。
 それでも息子と共にいられるというのだから、あの気丈さも嘘ではあるまい。

 その一瞬一瞬に見える、もろい所が重なって、壊れそうだ。

 傷がつくのを恐れるかのように拒絶する場所。薄い薄い氷の上を渡るような姿。

 気がいていないわけはないだろうが、そこに触れようともしない息子。
 その存在は、一歩間違えれば危険なのかもしれない。――それすらも楽しむような。

 少しでも触れたら壊れるかもしれない、だから触れない。
 触れてはいけないもどかしさも、すべて。

 しかし、そのもろいという言葉に儚いという言葉が続かないのは、あの娘の性格のせいだろうか。


 それから、息子が再び逃走した。
 ある意味で、予想できた事だった。娘を連れてきたあの日にはすでに。

 例えば氷のように閉じ込めても、水になって流れていってしまう。繰り返せば、いつしか空気になって消えてしまうかもしれない。

 だから付き添うのだろうか。

 どうなるのか、どうするのか、興味があった。
 妻の言うなりにやってきた息子が、求める前に求めていた物が手に入っていた息子が、本当に手に入れたいものなら。


 しばらく、騒がしい日々が続いた。お気に入りの玩具(おもちゃ)が手元にないフレアイラが、茶会だの夜会だのなんだの、行事を増やすので相手をするのが大変だった。
 人形が一つあればおとなしいのに、なければ手がつけられない。まぁ久しくお呼びのかからなかった上流階級の婦人達の不満を解消するには、丁度いい。


 そんなある日、息子が妻の密偵に引っかかったとの情報が入った。
 あれも、案外抜けている。

 今頃、妻は次の玩具をせがんでいることだろうな。


 そのあと、謁見室によこした。
 久しぶりに見た息子の気配が、少し違った。それがなんであるのか、具体的には出てこなかったが。

 しかし、なんで手ぶらなんだ。別件か? なんだ、つまらん。
「四の獣王を引き合わせます」
 正直に言えば、聞きたくない言葉だ。
「―――なんのために?」
「さぁ?」
 自分でもわからないのにやってきたのか。筆頭は、あの娘か。ならそれくらいの行動にでるだろうなと思うが。
 どうせ止めても結果は同じになるだろう。連れて行くと言えば連れて行くだろう。
 下手に止めても兵士が負傷するだけで、効率が悪い。

 なんだって、こんなに扱い辛くなってしまったものか。
 ……私は、息子をその身に流れる血でこの地に縛り付けている。だからこそ、扱い辛いのだろうか。
 本当に、私は寛大だと思った瞬間だ。


 人形を捨てなければよかったというフレアを見て、息子を見た。その夜に抜け出すという意思は同じだった。


 もともと、会話が多いとはお世辞にもいえない。むしろないと言ったほうが言い当てている。
 ふと、明日目覚めて叫ぶフレアの姿が浮かぶ。
「帰ったら怒られるかもな」
「父上だけですが」
 帰ってくる気は、まだないらしい。
「魚を逃がした息子に何を言われようとも」
 帰る場所が、まだあるかな?
「……」

 気まぐれだ、あの娘は。
 本当に興味のあるものにしか、興味を示さない。だがそのうちで何が一番大切なのか、見えない。
 渡る綱はまた、細くなっているのだろうか。


「はじめてきたな」
 それは本心だ。この場所の事を、聞き、方向を思ったことはあっても。
 ここに住む孤高の王の存在は、できれば遠ざけておきたいと思っていた。

 だが、同じくらい興味がある。まるで少年のように心を好奇心に駆られて、森に踏み込んだ。

 なれた手つきで、道を切り開いて進んで行く息子。その音が耳に痛い。正確には、それ以外に音がしない。
 まるで何もない空白の世界に、迷い込んだようだった。
 夢に見た事が、あるような、現実には考えられない世界。


 そして現れた。昔話に鮮明に姿を聞いたその獣。

「なんだあれは?」
「王のお付ですよ」
「ほぉ」
 お付? それにしては――
「本人は不本意でしょうが」
「お前の護衛と同じで、か?」
「………」

 うしろで、二人が言い争っている。まぁ逃げ出したいという気持ちも理解できなくはない。


 大木の下に寝そべっている白虎。そのこちらを見つめる、翠の目。
 その深い深い緑の色を、キギロン王が選んだ事の意味が理解できる。だからこそ、エルディスの色が緑なのだ。

 その孤高の王を目の前にして、なぜこみ上げてきたのが怒りだったのだろうか。いまでも不可解で、不愉快だ。

「父上」
「なんだ」
「関係のない話はあとにして下さい」
 これだ。
 そのあと出た息子の言葉よりも、獣王の言葉に驚きを隠せなかった。

「あの娘――リールと言ったか。どこにいる?」

「ラビリンス王を迎えに行きましたが?」
 不思議がったのは、息子も同じだった。
「そうだろうな」
 かみ合わない、会話。
「まだ、時間はあるか」

 何かが、動いていた。確実に、知らない間に。まるでそこには、知らない世界があるかのように。


 あまり、海を渡る術に長けているとはいえないが、海隊を捕まえた。王と王子を乗せるという大役を背負ったにも関わらず、彼らは嬉しそうだった。久しぶりの仕事で。
 あまりに、放置しすぎたかもしれない。たまには視察に来なければなるまいな。

 セイファート王は、ずっと海の先を見つめている。まるで、本当の目的地を知っているように。


「で、どこだったか」
 限りない海の先が見えない。
「こちらです」
 目的地ですら、海の上だ。
「――海の上か」
「そこに集まれ、と」
 もはや、誰の事だかわかりすぎている。
「その、オープと言うのはどこにあると?」
 そんな場所が存在するなど、聞いたこともない。
「さぁ? エルン大陸上らしいですが」
「だから、それはどこだ」
 その大陸は沈んだ。それは確かだ。
「知りません」
 それだけの曖昧な情報に、よく乗ったものだ。
「まったく、とんだ者を引っ掛けたな」
「さぁ?」
 ――後悔はしていない、ということか。しそうにないがな。


 転機は、一瞬。あわただしく、兵士が走る。
 右にニクロケイル、左にアストリッド。ならば正面は、シャフィアラ。そこが、集合地。

 息子と、シャフィアラの王の会話が剣呑(けんのん)だった。ついでにこちらまで睨まれる。まったく、外に出せば必ず何かの状況を悪くしてくれる。

 私が最後だった。その船の甲板に上がったのは。上がる途中から聞こえてくる聞き覚えのある声は、さらに大きくなる。
 縄梯子(なわばしご)を上った所で、人だかりができる。

「………」
 話を聞いているだけでも、ずいぶんとまぁ強引だ。
 今更だが、あの娘は非常識だ。


 流れるままに会話が進んでいく。騒ぎの中心にいるもの、傍観するもの、口を挟む事を忘れてしまったもの。


 黙っていてもことが進むことなど、久しぶりだった。いつも、いつでも、何かしら対応を求められるのだから。
 一度だけ、その視線が絡んだ。
 その瞳に映っているのは、その場にいる誰でもなかった。翼を広げた、エルディスと同じく獣の王。


 波は荒れ狂い、道を指し示す。
 激しい揺れが止んだ先には、小さな、丘のような場所が海に浮かんでいた。まるで、沈む時を待っているかのように、見えた。


 島に足をつけて、人々が集まってくる。そして見たのは、四獣王の再来。再会。強い力と畏敬を感じずにはいられない。
「すごいな」
「………」
 口をついて出た言葉に、息子が一歩引く。
「なんだ、何が言いたい?」
「いえ、父上にも人並みの驚きを感じる事はできたんですね」
「まったく、お前はそんなんだからみすみす逃げられるんだろう?」
 含んでも溢れていきそうな、二度目の言葉。
「――誰が、逃がしたと?」
 その顔が笑った。微笑むという言葉とは、ほど遠い。
 その視線の先に、あの娘とシャフィアラの王子が言い争っている。あの王子も頑張るものだ。

 静かに、口の端が上がる所を見てしまった。――ぁあ、そうだ。この息子も同じくらい厄介だった。

 さて、どちらに似たのやら。


 翼の王にしがみ付く娘を見た時、はじめて、彼女が人であったと認識したに近い。
 あそこまで必死になってまで、守りたい物があったのかと。失いたくないものを、持っていたのかと。
 人間には無関心。そんな娘の、願い、か。

 座り込んだ姿が、ひどく心もとない。歳相応よりも、小さい。その心を、支えているのは何か。考える必要もないか。


 四獣王が光に包まれて、その存在が消える。セイファートと名乗った王が、こちらを見て頭を下げた。それが、最後の姿。

「すべてのはじまり、――“エルディス”の名」
「……」
 それを、思い出した。
「あの白虎が、名づけたと言われている」
「それは……」
 知らないだろうな。
「キリング王の日記だ」
「そんなものが、」
「あった」
 王だけが、見る事ができる。
 ――もう一度、読み返してみるのも一興かもしれない。あの王にはもう、会えないのだとしても。


 まるで、終焉の時を迎えていた。だが、始まりは終わり、終わりは始まり。

 “新しい獣王”。

 ひっぱたくと思わなかったが、まぁ当然といえば、当然だ。
 レランも、うまく利用されている。あの二人に振り回されるなど、拷問だな。

 考え事をしていると、かすかな振動が伝わる。さっきからずっとそうだ。
 交代のせいかと思っていたが、まさか。
 嫌な予感に駆られた。まさにその時、島の端から鈍い音がした。何かが爆発するような、壊れるような。
 大地を揺るがすような。

 案の定、あの娘の性格は悪い。

「はい退却。沈みたいの?」

 もはや、何も言うまい。


 あの娘を一人取り残して、夜の海路を進む。危険だが、しかたない。あの島の近くにいたいと思うほうが危険だ。
 海は打って変わって穏やかで。あれだけ荒れ狂っていたのが嘘のようだ。

「陛下、お休みになられないのですか?」
 こちらを案じた、船長の声。
「いや、どうせすぐに――」
 たたき起こされる事になりそうだと、言う前だった。

「すぐにシャフィアラに引き返せ!」

 船室に走りこんできた息子に噴出しそうになるのは、笑うだけにこらえてやった。


 シャフィアラに向かった息子を置いて、先に国に帰った。次に娘にあったのは、自分の城の中。


「エアリアス?」
 帰ってきてからはじめた報告は、意外な名を持ち出してきた。
「はい、彼女は“エアリアス・リーグラレル・リロディルク”。シャフィアラの」
「薬師、だな」
「はい」
「………」

 一つが終わって、次が始まる。そんな気がした。


 それから、数日。いい加減見ているのにも飽きたので、息子に仕事を押し付けて執務室に閉じ込めた。

 案の定、娘は城を抜け出してくれた。


 先が海の絶壁、そんな場所をよく見つけたものだと思う。まさか飛び落ちやしないだろうが、不安にさせる。そんな場所。
 町の花売りから、抱えるほどの花を買っている。茶色いローブに、うつむき目の視線。その手に抱えるのは一抱えもある花束。――妙な構図だ。
 何をする気か、思案していたら動いた。

 花をつなぐリボンをほどき、そして、その手を離した。

 まるで、呼ばれ吸い込まれる声に答えるかのように、花々が絶壁の先に消える。それは一瞬で永遠。時を止めるような行為だ。

 最後に、その手からリボンがすり抜ける。風に飛ばされ、海に向かう。

 しばらく、佇んでいた。そしてその遠ざかる影を追った。


 娘は、相変わらず下を向いたまま、歩いていた。
「エアリアス・リーグラレル・リロディルク」
 言葉に、反応するかのように足が止まる。
「お前の、名だな」
 すっと姿を現す。娘は、こちらを少しだけ見て、視線をそらした。
「なぜ黙っている?」
 これくらいも、調べられないと思っていたか?
 娘の正面に、足を進める。さすがにその姿には気付いたのか、見上げてくる視線。一歩も、引くことないその視線。

「――自身の持つ“すべて”と引き換えに、多大な犠牲と引き換えに――貴方に不死を、不老不死を授けよう――エルディス国王?」
 ぞくりと、背筋が冷えた。その瞬間に森がいてつく冬の闇に変わる。
 娘に浮かんでいたのは、固まって動かない微笑。まるですべてを手に入れたかのような笑み。笑み? いや違う。浮かんでいるのは、もっと陰湿なもの――
「……お前は誰だ」
 何になりうるものだ?
 敵か、味方か? 食うか、食われるか? 飲み込むのか、飲み込まれるのか?
 それとも――破滅の死者か?
 この地に、生きているものなのか?

「私は私。違うのは、人が私を誰と認識するか」

 ふっと、氷の中に風が通った。その自身の名に、縛られない言葉。
 その言葉に、縛りたいのはこちら。

「“エアリー・リール”」
「何か、エルディス国王」


 そのあとの言葉が浮かばなかった。そう言って、少しだけ微笑んだ娘は足取りよく目の前を去った。
 自分を置き去りにする人は、フレアと息子以外にはいなかっただけに、笑えて来た。


 そういえば食事がまだだった事を思い出して、行きつけの店に向かう。まだ寄り道をするのですかといいだけなリヴァロの視線は置き去りにした。
 と、店に入って目に付いたオレンジ。果実と同じように明るい色は、遠めにもよくわかる。

「いただきま〜す!」
「ここにいたか」
「――……王?」
 話しかけると、今まさに料理に届きそうな手が止まった。首をこちらに向けて、迷惑そうにこっちを見ている。さらに声が低い。
「おやいらっしゃい! 久しぶりだね!」
 そんな事情を知らない女将はいつものように声をかけてくる。
「ぁあ、今日も」
「わかってるよ! いつものだね!」
 あっさりと注文を済ませ、目を白黒させている娘の目の前に腰掛ける。
「………」
「どうした? 食べないのか?」
 こちらが、笑い出しそうだった。
 胡散臭そうにこちらを見て、娘は何事もなかったと決め付けたようだ。
 一口食べて気に入ったらしく、動く娘の手がせわしない。そういえば、この娘はよく食べる。
「おいしいだろう? ここはおすすめだ」
「……」
 逐一(ちくいち)、言葉に行動が止まる様子が面白い。
 娘の視線が剣呑(けんのん)だ。睨み付けているし、白い視線だ。
「心配ない。――数年分働いてくれる奴がいるからな」
 誰の事だか、すぐにわかったのだろう。何も言わない。

「おまちどう!」
 沈黙が続きそうな所に、女将の声がかかる。テーブルの上に香りのいい料理が置かれる。
 静かに毒見をするリヴァロを横目に見て、娘はメニューを見直していた。
 食事が口に入る頃には、娘の皿は空に近く、次の注文の声が聞こえた。

 一通り、声が止み、沈黙となる。二人とも食事をしているので、当然といえば当然でもある。
 ただもくもくと大皿を平らげる自分と、追加の料理を食べる娘。半分くらい食べて、こちらも追加した。
 食堂の中では、気候、海、人々の様子。噂話、お祝い事。たくさんの会話が飛び交う。それぞれを耳の端に入れつつ、娘をみる。

「ごちそうさま」
「おいしかったかい?」
 置かれている水差しの水を注ぎ、水を飲んでいる娘に女将が声を掛ける。
「――はい、とても」
 それは、あれだけ食べればそうだろうと思うがな。
「そうかいそうかい」
 女将が嬉しそうに顔をほころばせる。久しぶりに見るなそんな顔。
「ずいぶんと可愛い子じゃないか、どうしたんだい? いるのは息子じゃなかったのかい?」
「その嫁だ」
 あっさりというと、娘が盛大に噴出した。
「それはまあおめでたい! 式はいつだい!!?」
「さぁ? ……幾分、息子がまだ、な」
「なんだい!? こんなに可愛い子を放っておくのかい?」
「そんなものだ」
 そして噴出した話題の本人を無視して、会話は進む。よく進んだ。
「ところで、上に部屋を借りたいのだが」
「ぁあ余っているよ! それに、めでたい事だ! 今日はおごるよ」
「それはふとっぱらだな」
「あっはっは! 出てるのは腹だけじゃないよ?」
 女将は茶目っ気たっぷりにそう言ってまた笑った。よほど嬉しかったらしい。それからすぐに、別の客の呼び声に誘われてさる女将。
「……大丈夫か?」
 さすがに、水差しごと水を飲み干しているのを見ると心配になる。
ダン!
 テーブルに当たるな。
「……王様」
 一段と低いな。
「ここではバートだ」
「ではバート様」
「なんだ」
「そんなこと触れまわしに来たんですか……?」
 あっけに取られたのは、こちらだった。どうやら、自分で思っていたよりもその事実が嬉しかったのかもしれない。
 隣で、リヴァロが声を抑えて笑い出す。
「――誤りではなかろう?」
 問い詰めているのは、自分だ。謁見に来る貴族どもより、面白い会話。
「わしには今の今まで何も言ってこない息子のほうが不思議だが?」
 あれから、この娘は“王子の客人”として、逃げる事もなく、淡々と城で生活している。
 考えられない行動だな。
 いくら暇をみて城を抜け出していたとしても、その地位に納まるような娘ではあるまい?
 そして、なぜ行動に出ない? 息子よ。
「……知りません」
「そうか――少し、聞きたいことがあるんだが」
 忘れないうちに、な。まったく、このままではいつまでたってもこのままだろうからな。
「……」


 ここではなんだ、と席を立つ。借りた部屋に向かい、簡素な部屋に入る。リヴァロは外に立ち、中には入らない。
 座る場所といったら、寝台くらいか。隣に座らせ、思いのほか小さい姿を見た。
「何か?」
 なのに、その存在感は健在か。
「両の親は健在か?」
「……なぜ、そのような事を?」
 一瞬、声が震えたようなきがしたが、そう重要な事だとは思わなかった。
「なぜ? 不思議な事を聞くものだ。仮に――いや現実に息子の嫁の親に挨拶したいというのが、そんなにおかしいことか?」
 真面目に言うと、娘は口を開けたまま放心していた。気がつけば“そんなことのために?”と、言い出しそうだ。
 だが冗談でもからかいでもない。ひたと、その姿を見つめた。静かに。

 しばらく、何も言わない。

 嘆息(たんそく)しそうになるのを抑えて、口を閉じる。
じゃ――
「「!!?」」
 開いていた窓から、風が吹きつける。カーテンがはためいて、動かされる。
パタン
 とっさに、窓を閉めに向かった。
 そして、声が聞こえた。――小さな、呟きが。
「……死にました」
「そう、か」
 考えられなかった事では、なかった。しかし、踏み込んでしまった。それほどまでに、祝福していたから。
「ならば、墓に連れて行っては」
「墓はありません」
「? 何?」
 よほど、会わせたくないのかと思った。それほどまで嫌う理由がわからない。だから、近づいた。そして、拒絶の言葉には気がつけなかった。
「シャフィアラでは、罪人の死体は海に捨てられます」
 “罪人”。一瞬、言葉の意味を見失った。
「一生、漂い続けろ、と」
「……」
 あの、荒れ狂う海の中を?

 下の食堂の喧騒が嘘のように、この部屋には届かない。この部屋に音が届かないという事は、この部屋の音も外には聞こえない。
 もしかしたら、沈黙に愛されたようなこの部屋で、よかったのかもしれない。
 そう。
「……よかったのかもしれないな」
「は?」
「海に行けば、逢える」
 荒れた海は、穏やかにその背を見送った。いつでも、いつまででも。
「っそんなことっ! あるはずないでしょう!?」
 その目が、訴える。勝手なことを言うなと、知ったような口を、聞くなと。だが、
「大陸を越えて、見守ってくれる」
 この世に海がある限り。
 そう、感じた。あの海は間違いではなかった。
「――……」
 うつむいて、沈黙した娘の隣に腰掛けた。

 やがて、少しだけ顔を上げた娘の目に映る自分。初めて、映してもらえたような気がする。見ているものは、違えど。

「おとう、さん……?」
「なんだ、リール?」
 何かを確かめるような、雲をつかむような声にしっかり答える。そして見つめた。ここに、いる事を伝えるように。
「お父さん……」
 再び呼ばれて、伸ばした手で頭を撫(な)でる。
 もう、置いて行かないで――その声が、聞こえたような気がした。
「ぇ……っ……ふっ……」
 しがみ付いてくる震えた手。ぽんぽんと、頭を撫で続ける。
 寝台と小さなタンスとランプの置かれた簡素な部屋に、すすり泣きが響きだした。

 ただ、愛おしいと思った。この小さな娘が。


 そのうちに、声が聞こえなくなり、寝息が聞こえた。こんな状況で寝入るなど、ずいぶんな事だと思いながらも、寝台に横たえる。
 しばらく、その横に座って娘を見ていた。窓から射す日差しは、だんだん長くなっている。

 そのうちに、足音が聞こえた。この部屋に向かってくる足音。勝手に入ってくる気配。
「――遅かったな」
 これは皮肉か?
「お蔭様で」
 機嫌が悪い、な。
「そんなに独占はしていないだろう?」
 振り返ると……睨まれた。今の今まで一緒にいた事、傍にいた事。
 ただ、話がしたかっただけだ。だがそれすらも気に入らないらしい。――そこまで、思っていながら。
「もとより父親に怒るのは筋違いだろう?」
 立ち上がり、笑った。無言で睨んでくる息子の肩に手を置いて、国王は部屋をあとにする。
 もう、大丈夫だろう。


 後ろ手に扉を閉じれば、頭を垂れた男が二人いる。一人は、自分の護衛で、一人は息子の。
「世話をかけるな」
「そのようなことは」
「頼んだぞ」
 そう言って、廊下を進んだ。

「忙しく、なりそうだな」

 誰にともなく、呟いていた。





さて、今回はエルディス王カルバードから見た二人です。
なぜか、国王様視点の話を思いつきました。朝、布団の中であと30分は寝れると目論んだ月曜日に。
王様から見たリールと言う感じだったのですが、さらに時間軸で追ってみました。
なんで、この話思いついたんだろう・・・?

Menu