家族 〜シャフィアラの民〜

 異変に気がついたのは、いつだったのだろう。
 それが異変だと思わず、通り過ぎてしまった。思えば、あれほどはっきりしていたのに。
 ふとした拍子に失われてしまうものだと、知っていたはずなのに。


「王」
 移動中にも関わらず矢継ぎ早に話しかけてくる大臣の言葉に答える。執務室から移動する間でも忙しい。
 まったく、これには自分の仕事を押し付けてきた父親の気持ちが理解できなくもない。
「……?」
 と、広間まできて気がつく。二階の階段から降りてくる影は見覚えがあり。誰よりも早くその存在に気がついたと自信がある。
 後ろに侍女を控える事になれることを嫌がっていたリールは、やっぱり移動中もいる侍女の姿にうんざりしつつ、歩いていた。
 こんな時間に城内をうろついている事は珍しいと少しだけ目を見張る。
 受け答えの反応が鈍くなった事をいぶかしんだ大臣達もその姿を見、口を閉ざした。
 しかし、上はまだ気がついていない。そう思った。
 ――おかしいじゃないか。その時にそう感じているべきだった。
 突然、のこと。
 信じられるだろうか。
 確かに、階段は危険だ。しかし、長い裾ならまだしも動きやすさを重視した格好のリールが、階段を踏み外すなど。
「リール!」
 先に、動いていた。他の事など視界に入らない。
 転がりつつも必死にしがみつくものを求める腕が無残にぶつかってはねる。転がり落ちてくる頭が強打されないか、その身に傷がつかないか。
 受け止めた衝撃に体が後ろに倒れる。その身を支えても自分の身は支えきれない。落ちるかと思い衝撃を覚悟した時、動きは止まった。
「――レラン」
「申し訳ありません」
 謝罪は、なんのためだ。
「リール!」
 そんな事より、腕の中で動かないリールを揺さぶる。
「王、揺らしてはいけません」
「っ。――ああ」
 怒鳴りつけたくなる衝動をなんとか抑えて、その体を抱えあげる。その、軽さ。どういうことだと顔を覗き込めば、その顔はどこか、青ざめていた。

 何かを忘れている。そんな気がする。
 そんな気を思い始めたのは、いつの事だったか。
 変わらず笑う姿に違和感を忘れ。子に微笑む姿に安心し。傍に寄り添うたびに繋ぎとめようと必死で、気がつけばこれ以上何もできない。
 知っていたじゃないか。
 孤高の島(シャフィアラ)の民である事を――




 人払いをして、その手を握り締めていた。暖かいといえば暖かいし、冷たいといえば冷たい。
 いや、震えているのは自分だ。
 思えば、真っ先に自分の身を犠牲にして生きていたのだろう。
 その身に起こりうることがあると、なぜ想像しなかったのだろう。
「リール」
 答えてくれ。
「リール」



 深く、深く沈んでいた。
 これ以上先はないと思えるほど深く沈んだ時、真っ白な世界が広がっていた。広がる世界はどこまで続いているのかわからないほど真っ白で、もしかしたら思っているほど広くはないのかもしれない。
 ふと、振り返った時、目の前に扉を見つけた。
「これ……」
 自分の声が遠くから聞こえてくるように響く。そこに、世界を揺さぶるように声が響いた。
『リール!』


 はっと目を覚ました時、手を握られていた。祈るように手を握り、傍らに座る影に視線を向ける。
「……カイル」
 ばっと、顔が上げられ、目が合う。ゆっくり微笑むのと、腕を引かれ抱きしめられたのはどちらが早かったといえば、決まっている。
 だらりと下がった腕が重く、その背に回す事ができない。変ね、どうしてかしらとぼんやり考える。
「リール」
 くぐもった声が聞こえてきて、どれほどその声に助けられたのか数え切れない。
「……そうなのか」
 確信を認められないという声に、答えられない。ごまかした所で、意味がない。



 ある日を境に、母はほとんど部屋から出てこなくなった。大人達は曖昧に言い訳をするだけで、泣き止まないリィンティトをあやすのに必死だった。
 会うことを制限されているわけじゃないのに、どこか遠ざかる足の運び。
 自分の中の母親という存在は常に大きく、安心するものだから、ぼんやり窓の外を眺める姿は受け入れられない。
 逆に、ティクレイヤは入り浸っていた。あの、無邪気さが羨ましい。



 海が見たいと言い出したので、抱き上げて廊下を歩いていた。何かを察したように立ち尽くしている息子と娘の姿に、リールが笑う。
「ライド、どうしたの?」
「母上」
「聞いているわよ。あなたがどれほど優秀か。でもたまには、休んでもいいのよ?」
 そう言って笑う。
「母上」
「なぁに?」
「どこへ――」
「お母様!」
「ティクス。あなた、また違う服を着ているのね」
「お母様に言われたくない!」
「――そうね。私のせいじゃないんだけどね」
「アズラルがはりきっているの」
「迷惑なのよね。でも本当、似合うわ」
 それは、昔リールが来ていた服でもある。
「お母様とおそろいにしてもらったの!」
「……物好きね」
 困った娘ね、と笑う。
「ごめんなさいライド、ぇえと、なにか言いかけていたわね」
「いえ……」
「ねぇ、おろして」
 カイルにそう言って、床に足をつく。久しぶりに抱きしめた体は、小さいけれど、生きていた。顔を覗き込めば、どこか面影がラーリ様に似ていた。
 その手が、背中の服を握り締めてくれた。
 ずしっと重みを感じた。後ろからティクスがしがみついていた。
 本当にこの活発な娘は、誰にも負けない。
 静かに体を離して、立ち上がる。セナが抱きしめるリィンの頬に口付けをしてそっと離れる。
 ――さよなら。



「お前達は残れ」
 ついてくるなと言われ、仕方なく残った。王に抱かれた小娘が笑う。そして、すれ違う。
 ……なにか、違和感。
 ばっと振り返った時、もう馬は走り出していた。
「どーしたよ?」
「……いや……」
「さーて俺は寝るか〜」
「その前に死ね」
「ぎゃーーー!!!?」



 ついてこようとする護衛を置いて、なおいる警護をまいて、馬を走らせる速度を落とした。
「リール」
「……ん?」
 閉じていたまぶたが開いて、ほっとする。
「急ぐが」
「いいわよ。別に急いでないから」
「そうか」
 走らせていた馬を歩かせて、道を進む。ゆっくりと会話を続けていた。内容はたわいない事ばかりで、意味がない。
「……」
 徐々に様子が変わっていくのを、少しずつ感じていた。
 だんだんと、閉じたまぶたを開くのが重くなっているようだ。
「リール」
「――おろして」
 馬を止めて、木の下にしゃがみこんだ。膝の上に乗せた存在が軽い。伸ばされた腕が頬に触れるので、その手に唇を寄せた。
「……ライドと、ティクスと、リィンを――」
「ああ」
「あんたが育てないでよ」
「……おい」
「だって――ひねくれそうじゃない?」
 かなり引きつった顔をしていた事は自覚している。
「その顔、不機嫌なレランにそっくりよ」
「レランが真似したんだ」
「かわいそうよね」
「……」
「冗談よ」
「どっちが」
 そういうと、曖昧に笑っていた。

 ――半分はね。

「……抱きしめてあげて」
 それは、母親の言葉だった。そして、薄れる気配を必死でつかもうとその体を引き寄せる。
「リール」
「……ん〜?」
「………」
 話しかけてみたが、何も言えない。
 いつも問いかけてみたかった。――後悔していないのかと。



 声をかけたまま止まってしまったカイルに、もう片方の手を伸ばす。その首に腕を回して、声にならない声で、囁いた。
 ――わかってる――
 それから、顔を見て微笑むと、安心したのか笑う。なんだか久しぶりに、どきどきした。
 こんなに誰かを愛せるなんて、思いもしなかった。伸ばした手をつかまれたこと、うれしかった。
 私の手にカイルの手が重なって、顔が近づいた。



 握っていた手が下に落ちて、閉じていた目を開きながら顔を離せば――

2010.09.22
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