壱 La Danse des Fleurs 〜花の舞い〜
( 一 話 )


「スリジェ!」


 私を呼ぶ声がする。名前なんて、結局は記号にすぎないと誰かが言った。でもその名前には、呼ばれた回数と持っていた時間だけの愛着がある。大好きな名前で呼んでほしい。理想の名前は?
 名をつけた瞬間、それは私と友達になるのだ。ぬいぐるみも、キャラクターも、身の回りの物すべて。
 その記号は時に誰にもまねできないものとなって、唯一無二の価値を得ることもある。商業主義の世の中では、商標はお金に変わり、人々の深く知るところになる。


「スリジェ!」
「あんたまたきたの?」
 薄暗い一室で、勢いのよい男の声と呆れかえった女の声が聞こえる。ほのかな明かりに、男の金色の髪が光る。輝きと意思を持った瞳は灰色ながら、前を見据えていた。
「俺と結婚してくれ!!」
「いや、だから帰れ」
 男にしてみれば一世一代の告白だろうが、ばっさりと切り捨てる女の声。
「何が嫌なんだ!!!」
「営業妨害よ」
 女の肩を掴んでがくがくゆさぶる男の腕を内側から払い捨てるようにそらし、逃げる。その女の手慣れた姿。
「誰が妨害だ!! まだ金がほしいのか!!」
「問題ある?」
「……ないが……」
「じゃぁいいじゃない」
「よくない! とにかく! 俺と結婚してくれ」
「客と結婚する趣味はないわ」
「だからっ……」
「まったく。もう話はおしまい? もう眠いんだけど」
 部屋の真ん中には、薄暗く、どこかみすぼらしい部屋にしては真っ白い掛布のかかった寝台がある。壁には、雨水が流れたようなあとやシミが見える。床は木が打ち付けてあって、寝台の周りだけ絨毯が引いてあった。女が座っていた長椅子は向かい合うように配置してあり、間に低い机が挟んで置いてあった。ちょっとお茶をするには持って来いの広さだ。今は、ランプの光がゆれている。
 窓は厚い布で覆われ、月の光は届かない。
「だから……なんでもない」
 寝台に向かう女の姿に向かって、伸ばした手を力なく落とす男はうなだれ、顔を上げる。
「そう」
「なんで服を脱ぐ!?」
「あのさ、ここは娼館なんだけど」
 さらりと、娼館だと言うには厚手の服を女は脱ぎ捨てる。その下から現れた肌着は肩から太ももまでをおおう白いもので、女の肌の色が透けていた。
「うるさい! 俺はお前と結婚するまでは何もしない!!」
 一歩引いて、男は声高く宣言した。
「何よそれ」
「願掛けだ!!」
「すでに使用済みよね」
「………いや……その……とにかくだ!!」
 女の冷たい視線にたじろいだ男は目を泳がせ、更に一歩足を引いて、踏みとどまった。
「営業妨害なんだけど」
 黒い髪、黒い瞳。肩口までの髪、勝気な目、どちらかと言えば細身で、あまり肉のついていない体。口の悪さ。客を客と思わない態度で、女は彼に呆れ果てて言う。――いつものこと。


「スリジェ! 今日もいい稼ぎだな!」
「女将さん。あいつ出禁にできないの?」
 機嫌のいい女将の声に、昨夜男と言い争ったあげく勝手に眠った女はかなり真剣な表情で言い放った。
「デキン?」
「出入り禁止」
「なんだい? あんな大口の客に何を言う」
「結婚してほしいとか言ってんだけど」
「しないんだろう? もちろんしないでおくれよ。あんたが結婚したら儲からないよ」
 スリジェに会うためになら糸目をつけない彼に対して、すでに相場以上ぼったくった女将が言う。
「なんだいその反抗的な目は、言っとくけど、口答えは許さないよ」
「何も言ってないし」


「お疲れスリジェ〜またあいつ?」
「笑わないでよ。フレーズ」
 ストロベリーブロンドと言うどうしたいのかわからない色があったけれども、本当にいるのね。最初はそう思った。赤みの強い紫の瞳をくるくると輝かせて、スリジェが食事をとっていた席の隣に座るフレーズ。今日は淡い黄色い服ワンピースだ。
「本当、女将もいい仕事するわよね。スリジェとの結婚を断られてあきらめるどころか、毎晩、女将の言い値であんたを買い続けるなんて」
「営業妨害よ」
「あら? そんなに不満なら男娼にでも行って来たら?」
「あのねフレーズ」
「それにしても手取りは変わらなくて、儲けは全部女将の手の中。遊ばれてるわぁ。いっそ結婚しちゃえばいいのに」
「怒るわよフレーズ」
「怖い怖い。あ、見てブランシュだわ。こっち睨んでる〜売上一番はスリジェだもんねぇ。しかも、別に何もしてないのに」
「いくらでも変わってほしいわ」
 スリジェはため息をついて、冷めた豆の少ない豆のスープを一気に飲み干した。


 また今晩も、奴がくる。彼とはじめてあったのは、私が初仕事を任された時だった。新人はその日初めて来た客を相手にするのが、この娼館―マリアージュの決まりだった。
 まぁはじめての客があんな金髪のイケメンだとは思わなくて、それはよかったんだけど……次の日の朝に求婚された。それを断り続けると……彼は毎晩私を買って、求婚し続けるのだ。いい加減あきらめてほしい。


「スリジェ」
「なに」
 今日はいきなり抱きしめられた。これが恋人同士ならさぞや甘い語らいの時間になりそうな雰囲気。耳元に囁かれた名前に、おおざっぱに返事をする。
「しばらく……こられないんだ」
「やった」
 本音でしゃべると、がっくりと肩を落とした。
「っていうか永遠にこなくていいわよ」
「嫌だ!!」
「子どもか……」
「とにかく! 三日の辛抱だからな!! お土産を買ってくるからな!」
「いらないし。こなくていいし」
「その間もちゃんと俺のものだからな!!」
「お金で体と時間は買えるしね」
「……だから」
 がっくりと肩を落として、額を抑える。開いた指の隙間から、こちらを見つめる。……その無駄な色気はなんだ。
「これで営業再開ね」
「客を取るのは許さない」
 突然の低い声に、ぞくりと、背筋が冷えた。
「――は?」
 頭の中はパニックになりかけたが、かろうじていつもの気合で抵抗する。
「言っただろう。三日分も……というかずっと先払いをしてある」
 いない間に、なにが起こってもわからないだろうに。女将が何を考えているのか手に取るようにわかる。だけどそれはきっと、このお貴族様にはわからないのだろう。
 というか、これでようやく仕事になる。

2013.03.11
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