弐 Le Parfum Floral 〜花の香り〜
( 六 話 )


「ヴィオレット」

 ふと、足を止めた。
 頭の中に浮かぶ影は変わらずひとつだ。ぼやけた視界に、手を伸ばす人の姿。必死に何かを訴えかけている。だけど決して、力で押さえつけようとはしない。あなたは、だれ? 何を、言っているの?
 どうしてそんなに、私を呼ぶの?

「ヴィオレット!」
「!? ……リュビ」
「もう、さっきから呼んでるのに。まーた王子様のことでしょ」
「王子様って……」
 学びを終えた教会の中は、ほとんどの子が帰ってしまったのかまばらな人影だった。木の椅子に、ちょっと斜めになっている机。最後に正面の神像にお祈りを捧げているうちに、また、思い出していた。
「だって、ずっと考えているじゃない。しかもヴィオレットに手を差し伸べて呼んでいるなんて、これぞまさに運命ね!!」
「リュビ、次はなんのお話にはまっているの?」
「それが! 今大ばば様がお話して下さるのは、運命の人が仇敵の家の息子だったっていう話なの〜」
「……楽しそうね」
「ヴィオレットも今度聞きに行きましょうよ!」
「うーん。でも」
「あ、なーによ。私とじゃいけないって!!?」
「そうじゃなくて、手伝いもあるし」
「ほんっとマジメよねーヴィオレット。いくら居候だかっ……ごめん」
「そうね。今日もポワソンさんのお手伝いしなくちゃ。じゃぁねリュビ」
「ええー」

 プティットと呼ばれる小さなこの村では、本などの紙類は貴重品だ。薬師を営む老人と尊重の家にはある。昔王宮で侍女をしていたと言うおおばば様は、物語をたくさん暗記していて、その中からお話を聞かせてくれる。時間帯は決まって夕刻。みんなお話を聞いて、夕飯のために家に帰る子がほとんどだ。
 子ども向けの童話、冒険のお話、はては村中の女の子がときめく恋物語まで、おおばば様の周りはいつも大人気だ。
 おおばば様の家に向かう子どもと、女の子たちとすれ違いながら私は家に帰る。
「あら、拾われっ子はもうお帰り?」
「ええ」
 村長の娘は、偉いのは村長であることを自分と思い込んでいて、いつも攻撃の対象を探している。私は、その対象になりやすい理由を持っていた。だから、
「さようなら」
 相手に話す隙を与えず、足早に立ち去った。

「ぇえと、食パンと、くるみパンを下さい」
「はいどうぞ。いつもありがとう」
「いいえ」
 四人分のパンとなると、結構な量がある。特に食べるのは今年二十八になるフラム兄さん。家でパンを焼くこともあるが、パン屋さんには敵わない。
 しっかりとそれを抱え直して、ちょっとだけ、いいかなと自分に言い訳をして遠回りをする。
 ――いた。
 見ているだけで、いいの。見ているだけで……本当に? 大通りに面した村唯一のお医者様の家の中、彼の姿が窓辺に移る。どこか遠くを見て、ほほ笑むその姿に、息が詰まる。
 声なんて、かけられないわ。ため息をついた。
 窓辺に映るその姿は――
「!?」
 目が合った。心が歓喜にふるえて、動きを止める。ふっと、彼がほほ笑んだ。いつものように、あの時のように。一気に体温が上がって――顔を隠すように逃げ出してしまった。


「……最悪、ね」
 嫌われてしまったかしら……
 医者と、患者と言うくくりから離れてしまった今、彼に近づく理由が見つけられない。ただでさえ居候のよそ者は、一部の人たちを除いてあまり歓迎されていない。迷惑は、かけられない。でも、もう一度。



「ただいま帰りました」
 村の北側に、今住まわせてもらっている家がある。町の中心をそれて、川の近く。もう習慣に変わった水汲みを終えて、台所に立つ。この家の住人は、薪の火の起こし方を知らない娘に、よくまぁ根気よくやり方を教えてくれたものだと思う。
 料理はできるのに、調理器具が使えない。かなり不思議がられた。そしてできあがった料理は、どこの料理だと問われた。
 答えられない。
「お帰りヴィオレット」
「ポワソンさん」
「今日はなんだい?」
「ええと、ハンバーグと、コンソメスープ、ポテトサラダと、パン」
「じゃ、ちょいとでかけてくるよ」
「いってらっしゃい」
 そう言ってでていくポワソンおばさん、おばさんって言うと怒るからポワソンさん。ご近所のおばさんと井戸端会議をするんだろう。もう少ししたらバトーおじさんと、フラムお兄さんが帰ってくる。私は庖丁を握り直した。


 彼は私の主治医だった。将来家業の医師を継ぐ彼はお父様であるお医者様の手伝いをしていて、村ではもう二人目のお医者様扱いだ。
 彼は私の体調や、調子が日常生活に問題がないか定期的に診察をしてくれていた。最初は気がつかなかったけれど、会話のしぐさ、気遣い。物静かな中に潜む優しさ。一時の気の迷いだとしても、この気持ちは本物だ。
 離れがたくて、もうほとんどいいのに、病気のふりをしていた。だけど薬代も診察代もあって、止めてしまった。もう病気じゃない私が、彼の住む医者に通うどおりはない。
 この思いは――


「そろそろ花祭りだな」
 ちょっと味付けを失敗した夕食の席で、バトーおじさんがぽつりと言う。料理のことを責められるかと心配していたのでほっとした。
「フラム、意中の女性は誘ったのかい?」
「ぬかりないさ」
 母親と息子は会話を進める。
 一年のうち、若い男女が一番浮き足立つのは花祭りだった。恋人たちは手を取って踊り、思いを花に込めて贈りあうお祭りだ。恋人たちのお祭りとも言われる。
「ヴィオレットの服も新調してあげようよ母さん」
 と、フラム兄さんが言うなんて考えられないことを言った。
「なんだい。母さんのお古じゃ不満かい?」
「意外に大物を釣り上げるかもしれないじゃないか」
「そうだな。それはいい」
 納得した。邪険にされている訳じゃないけど、なんとも言えないこの扱いに、リュビはいつも口をとがらせている。私は、慣れてしまって。それに、反論が許される立場ではない。
「そろそろ何か思い出したかい?」
「すみません。何も」
「ま、私は助かっているからいいけど」
「母さんはヴィオレットに頼りすぎじゃないか?」
「何言ってんだい。かまどに火すらおこせない娘をここまで仕込んだのはあたしだよ!」
 数か月前、私は川辺に倒れていたらしい。フラムが見つけてくれて、ポワソンさんが介抱してくれた。着ていた白い服は川の土砂で茶色に染まり、今までの記憶もなくしていた。唯一片手に握りしめていた紫色の花。――それが菫(ヴィオレット)。
 だから私は、ヴィオレットと呼ばれている。
 夢の中、幻のような彼も必死に私を呼んでいるように見える。それは果たして、「ヴィオレット」なのだろうか。


「ヴィオレット〜!」
「リュビ」
 この村の子どもたちは、昼間は教会で文字と計算を習う。私は、文字は本当に苦手だが、計算はかなりできると神父様にお墨付きをもらっている。
「ねねねねこの昨日の宿題。答えは五?」
「うん」
「さっすがヴィオレット〜頼りになる〜。そうだ! 例の大ばば様のお話の続きなんだけど……」
「女は毒を飲んで、男は自殺しちゃうんでしょ?」
「そうなの〜そうなのよ!!! ……なんで知ってるの」
 ぇえと。有名な話だと思うけど……有名……? ……あれ? なんで有名ってわかったの? 知っているの?
「……ポワソンさんが知ってたわ」
 ひとまず会話を続ける。ふと思い立った疑問は小さいもので、畳み掛けるようなリュビの勢いにすぐに忘れてしまった。
 それは兆し。

2013.04.22
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