四 Camps de Fleurs 〜花畑〜
( 十一 話 )



「あなたは。いつも寄付をありがとうございます」
 孤児院のシスターにそう言って頭を下げられても、首を傾げるだけだ。そして聞いたところによると目下この孤児院は大々的に改装工事をしていて、その資金のほとんどは婚約者である彼が出したらしい。まさか、それは、私のわがままだったのだろうか……。
 礼を述べるシスターの相手を彼が務めていた。私は出されたお茶を冷ましながら、二人の会話をどこか遠いことのように聞いていた。
 あなたがよく通っていた場所を案内しますと連れられたのは、孤児院だった。責任者だと言う女性にこころよく迎えられて、お茶を飲む。あの扉の隙間からのぞくのは子どもたちだろうか。
 ここに毎月寄付をしていたと言う。私が。――思い出せない。子どもがそんなに好きだったのかと思うと、違和感。目的が違っているのではないかと思う。
 でも、なぜ?
「奥様?」
 どうかしましたかと優しく声をかけてくれるシスター。その笑顔。――何か、大切なことを忘れている気がする。なんだろう。……なんだろう。気持ちが、悪い。頭が重い。
 駄目だと、拒絶されている。と、机の端に飾られたものに目が行った。小さな器に生けてあるのは……
「……菫の花」
「ヴィオレット」
 ふと呟いた言葉に、アストルが言葉を返してくれた。
 そうだ。ヴィオレット。菫のことだ。私はあの村でヴィオレットと呼ばれていたのだ。水に流されても、唯一、手から離さなかった花。握りしめたこぶしに掴んだ、紫。
 記憶の波がぶれて行く。――が途中で途切れるように、消えた。何も思い出せない。
「何か気になることでも」
「いえ……」
 丁寧だが、どこか責め立てられているようなアストルの言葉に身をすくめる。頃合いを見てあとにした孤児院は、もう見えない。馬車は屋敷へと向かう。のだと思っていた。
「どうぞ」
 ええと……途中で止まった馬車から下りるのに、手を差し伸べられた。目の前には市が広がっていて、道の左右をずっと露店が埋め尽くしている。
 風が、動き出すような。どこか、安心する光景。
 ふらりと歩き出した。
「ロザージュ」
「! あ、はい」
 吸い込まれそうな活気の中、アストルの声がどこか冷めきっていて、ぞっとする。
「私は先に帰ります。何かあればカスカードに」
 そう言って一歩進み出たのは、白い服を着た騎士で――やはりわからないが、私が苦手とする人物だった。だけどこの機会は、逃せない。知っているのだ、この空間を。なつかしみを覚える、この、場所を見てみたいという思いを優先したい。

 てくてくと、露店を埋め尽くす人ごみの中をぬって歩く。果物、肉、織物、木彫り、魚介、お菓子、衣類、輝く色に、活気あふれる声。心が浮き足立つ。ただ。
 ちらりと視線を斜め後ろに向けて、カスカードと呼ばれる、アストルの片腕と目が合う。小さな悲鳴を飲み込んで、歩く。
 いつもそうだ。わからない。わからないけれど、あの視線は軽蔑か、それとも怒りか。怖いのだ。
「なにか」
「っいいえ!」
 声をかけられて、慌てた。その時。
「スリジェ!!」
「きゃぁ!?」
「やっぱりスリジェ! 久しぶり! どうしてここに? 元気そうね〜」
 長い髪をゆらした女性が、手を取ってまくしたてる。いかにも親しげに、嬉しそうに。
「どうしたのスリジェ?」
「あ、あの」
「もうスリジェ。いったいどうしたの? あのお貴族様に連れ去らわれたの? まぁブランシェはまた一位に返り咲いて大喜び……スリジェ?」
 長い髪をなびかせてまくしたてていた女性は、私の様子が変だと思ったのか私を見て、ふと視線をうしろに向けた。私は呆然と長い髪がゆれるさまを見ていたので、背後でカスカードが口元に人差し指を立て、反対側の手に小さい袋をちらつかせていたのは見えなかった。
「あ! ごめんなさい。――人違いだったわ。それじゃ、私急いでたの。さよなら」
「待って!」
 あなたは、私を知っているの――? 問いかけて言葉を飲み込んでしまった。仮に彼女が、私の過去を知っているなら――何かが警告していた。それはあの孤児院で感じた兆しだった。小さな不安の種となって、心をゆさぶる。彼女はもしかしたら、知り合いなのかもしれない。けれど、過去の私を、知る人。なぜか急に恐ろしくなった。
「ごめんなさい」
 早口にそう言って、彼女は踵を返した。引き留めるために口にした言葉が嘘のように、私は動けなかった。
 知ってはいけないと、心が悲鳴をあげたのだ。


「町はどうでしたか?」
「――え?」
 久しぶりにアストルと夕食を共にしていた。今日は一日休暇にしたのだろうか? テーブルを挟んで向かい側。給仕がいったん下がる。それまでの沈黙を破って、声がかけられたが反応が遅れた。
「楽しいことでもありましたか?」
「……ええと」
 カスカードに“報告”を受けているのではないだろうか。彼の優秀な護衛は、すべての様子を伝えていると、確信している。
「素敵なところですね」
 私は、彼女のことを押し隠した。

 それは、手がかりであったはずなのに。まるで思い出すなと言いたげな変化に従った。
 心は、何を考えていたのだろう。
 知りたいのに、知ってはいけない。そんな気持ち。恐ろしいことが、口を開けて待っているような現実。


「娼館仲間?」
「はい。賄賂でおとなしくなりました」
「金に寄生するか、まさに娼婦だな」
「……過去に遠征に向かわれた時に監視役となった娘です」
「ああ。あの赤毛か。金さえ払っていれば、口を割ることも近づくこともないな」
 そう言って、アストルはわらった。それはロザージュに向けるものでも、かつてスリジェに向けていたものでもない。もっともっと、陰湿なものだった。それは、スリジェが見ても背筋が寒くなるような、彼女たちが知る彼に似つかわしくないものだった。カスカードはそんな主人の笑みに慣れているのか、言葉を続けた。
「その後は早々に戻りました。そして夕食の席に至ります」
「ずいぶんおとなしくなっていたな。何を思ったのか……やはり孤児院には何か思うところがあったのだろうな……」
 そう言って、思い出すように思案するアストルの顔は、先ほどの陰湿なものから一変して、何かを悔いるようで――
「まぁいい。やり易くなったのは事実だ」
「は」
「あれから目を離すなよ。お前はずいぶん嫌っていたが、最近も変わらないか」
「お戯れを」
「隠す必要はない。そう嫌うなと何度言ったことか」
「彼女は本当に、そうなのですか」
「わからないのか」
「――申し訳ございません」
「いや、いい」
 これも何度もしたやりとりだ。感じ取れないものに、何を言ってもしかたない。アストルは、それをよく知っていた。
「明日は王城だ」
 話を変えて、アストルはため息をつく。
「は」
「兄上が何事かと嗅ぎまわっている。――本当に無能な存在だが、ことが大きくなると面倒だ。情報管理の徹底を怠るなよ」
「かしこまりました」

2014.06.23
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