五 Comme des Fleurs 〜花のように〜
( 十五 話 )



「スリジェ」
 声に出していたのは、同じようで違う名前だった。本名だと浮きそうだし。かといって新しい名前はなじまなそうだから。
 第二言語で選択していた、あの言葉。その花の名前――
「――スリジェと、呼んでください」

 話は、数分前にさかのぼる。



「お前さん。お前さん!」
「……あれ?」
 呼び声に答えて、はっと目を覚ますような感覚。――妙にすっきりした目覚め。
「いったいどうしたって言うんだい。こんな森の中で、どこの子だい?」
「……わたし……」
 がめつそうな顔をした茶色い髪のおばさんが、目の前で首を傾げていた。香る香水の強さに辟易しながら、小説よろしく気絶もできない。気付け薬ってこんな感じなのかと妙に納得。
 ぴちと、近くで取りの鳴き声。風に乗ってゆれる木の葉の音。
 ――あの赤い血だまりを思い出す。
「……ここは?」
「は? 迷子かい?」
 のちに女将と呼ぶことになったおばさんは心底面倒そうな顔をして、説明してくれた。王都から少し離れた森であると。
 そして、がめつさはあれどどこか人を見捨てられない優しさを持つ女将に連れられて、私は娼婦として働くことになった。
「おばさん。あの」
「私はおばさんじゃないよ!! マリアと言う名前があるよ!」
 聖母か、それとも……
「お前さん、名前も思い出せないのかい」
「さ……いいえ」
 今は、思い出したくもない。そして、明らかに日本語ではないおばさんの名前。
「スリジェ――スリジェと、呼んでください」
「そうかいスリジェ」
 言いよどんだことを、女将は問いたださなかった。どこか真剣に、こう言ったのだ。
「自暴自棄になって死ぬくらいなら、その体役立たせてごらんよ」
 連れて行かれたのは娼館だった。そこから、スリジェとしての物語がはじまる。



「………」
 すべてを思い出すには、遅いのか、早いのか。
 前島 桜として生きていた。そして姉の事故を経て、この世界でスリジェとして生きていた。あの血だまりのことは夢だと思うのには丁度良かった。そしてそのまま一時、すべてを忘れヴィオレットと名を変えた。菫の花を思い出させるその皮肉な名に疑問を覚えながら、私は、逃げ切れなかった。それから、王を導く「まれ人」の力を見出されてアストルに庇護されていた。だけどそれを知らず――私はロザージュと名を変えていた。いくら記憶を失っていたとしても彼の婚約者として屋敷に住んでいたなんて……クロワがいらだつのも頷ける。そして「まれ人」の噂を聞きつけてオーストンが来た。あの第一王子は自分が王位を継ぐためなら、なんでもする。
 だけど、結果は――

「ロザージュ様」
「え、ええ」
 私はロザージュのまま。
「どうぞ、王妃様。王に謁見の準備が整いました」
「そう」
 彼は、私がすべてを知ったことを、知らない。私は桜で、スリジェなのだ。
 茶番劇にはつきあえない。まれ人だと勝手に崇められても困る。
 彼は王様。私は王妃。――いつの間にと苦笑する。帰らなくては。あの、桜として生きていたあの世界に、空間に、時間に。

 ――帰れるだろうか


「アストル」
「ああロザージュ……どうした?」
 昼間、執務室にやってくるなど珍しいと、彼は少し首を傾げた。自分でもおどろいている。どうするつもりだったのだろう。彼に打ち明けて何か変わるとでも言うのか。
「なんでもありません。ただ――」
 思えば、あの娼館でやり取りしていた姿とは違う。言葉使いも、ふるまいも。どちらが、本当……愚問だ。どちらも、同じアストルの姿だ。私だって、桜で、スリジェで、ヴィオレットでロザージュなのだ。花の名は人の都合で決められた記号。花は、時を迎えれば咲くのだ。誰のためでもなく、自らの欲求のために。
「何か心配事か? オーストンは排除したし、反対するものもいないはず――何か言われたか? 娼婦を王妃にするなと言った」
 そこまで言って、アストルははっと気がついたようだった。ロザージュは、過去に娼婦だったことを知らないはずだから。
「え?」
 だから、聞こえないふりをして問い返した。
「いや、なんでもない」
 アストルも、私も、ほっとしたのだ。話を切り上げて、部屋を出た。クロワの目が、光ったことには気がつかなかった。


「――王妃様」
 背後の気配は、音もなく突然で、角を曲がり暗がりに入った所でそれはやってきた。
「――っ、ぅ……クロ、ワ?」
 腕をひねりあげられて、壁に押し付けられている。一体、何が。
「お前は誰だ?」
「誰って……それは――ぃっ」
「知らないはずはない」
 やばい、あの一時で何かばれかけている。ここは、えーと、えーと。
「娼婦って、いったい」
「知らないのか」
「あの……私は――きゃぁ!?」
 腕を引きずるように回され、床に倒れ込んだ。
「余計な詮索をするな、王に災いする」
 冷たく見下ろされた。ふと耳を澄ますと、足音が聞こえる。
「大丈夫ですか、王妃様」
 今度は冷笑を消して、まるで倒れ込んだ私を助け出すかのように手を差し伸べてくる。廊下を通り過ぎたのは、近衛の兵と連絡係で、こちらを見ることはなかった。
「――」
 静かに舌打ちして、クロワは身をひるがえして廊下を進んで行った。たぶんアストルの執務室に戻るのだろう。私は床に座り込んだまま、しばらく考え込んでいた。――自分の、身の振りについて。

 これは、警告なのだ。
 スリジェは、必要ないと。



「どうした、クロワ?」
 王の執務中に、カスカードが席を外すのは原則、王が命令した時だけだ。
「いえ。気になったことがあったのですが。気のせいでした」
「そうか」
 アストルは違和感を忘れ――再び執務に戻った。



「どう、したら……」
 どうしたら、いい?
 帰りたい。帰りたくない。戻りたい、けれど、戻って、姉が、姉が死んでいたら――
 だから、逃れようとしたのに。死ねなかった。
 何かを見透かしたあの娼館の女将は、娼婦として、誰かに必要とされれば、気が晴れるだろうと、私に役を勧めたのだろう。
 私は「桜」を名乗るが恐ろしくて、「スリジェ」と名乗った。
 何を恐れるのだろう。ここには、私を知る者は誰も、いないのに。
 私を、知る者は――
「………まれ人」
 私は、まれ人だと彼らは言った。あれは、確か。
「第二王子……ミストラル」
 害にはならない男だと、アストルが言ったじゃないか。彼に、彼になら――

 って、それこそどうやって……



 願いを叶えるなら、まず、強く、強く願うこと。
 そして、機会をうかがうこと。焦っては駄目。チャンスはいずれ、やってくる。
 その時を、間違わず、迷わず、掴むこと。
 それには、気がつかれてはいけない。
 スリジェが、疑っていると。
 騙すのは、得意でしょう? ――自分の、心ですらも。

2014.11.23
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