音も立てず扉が開かれて、何事だと首を傾ける。確かにかかとのヒールの音を立てて部屋に入ってくるその姿に絶句した。
 その人は、こちらに言葉を発する事を許さず、ただ先に進む。
 もう、忠告は意味を成さなかった。
 その人の監視に囲まれて、自分達も動けなかった。
 伝えなければ!


 目的の書物は、まだも膨大で分厚い。取り出すのに一苦労だというのに、中身にはなかなかたどり着けない。
 あーもうと声に出しつつ、頭をかいた。大体薄暗い!
 そして本を覗き込んでいた。靴音がしたことは、どこかで意識したが、気にも留めなかった。
 だから――
 ふっと、落ちた影に驚く。暗い。
 何かと顔を上げて、ひっと声を飲み込んだ。
 黒い髪、そして、目。感情のない色。見据えるもの。一切のものが消えてなくなるかのような、あの目。
 飲み込まれるという、恐怖。
 がたっと動いた。背が本棚に当たる。ばさばさと落ちる本だけが、現実。
 ――正妃。
「あなた、役立たずなのね」
 思い出せない。その先が。



 スカットレシュール? 第三王女ですか?
 誰もいない所で話しかけているところを、見たというものがいる。
 突然笑い出したと、言うものもいる。
 何を見て歩いているのか、何がしたいのかさっぱりわかりませんね。
 まるで、奇人ですね。姉王女はああも聡明であるというのに。
 まぁ王族の一員ですから、高貴な身分のものの考えなど、我らには到底わかりえないという事でしょうな。
 違いない。

 最後に続くのは、笑い声。
 ぎゅっと、手に持つ花を握り締める、小さな女の子。

 ――ぁあ、これは私だ。まだ、よくわかっていなかった頃の。
 この頃だった、ジュアと初めて話をしたのは。そして今がある。
 後悔はしていない。ただ、
「スーシュは役に立たないんだよ!」
 無邪気に、だけど確かな怒りと共に発せられた言葉は、苦しかった。



 目が覚めたら、自分が涙を流している事に気がついた。
 ひどく寒い。なぜだろう。私は――
 立ち上がって進む。ここは私の部屋としてある場所だ。
 いつの間にここへ? いつここへ?
「――っ!?」
 点されていたであろうろうそくは消えていた。だから見えたのは、差し込む月の光。
 見えた。見てしまった。
 窓に映った自分の首筋に残った、細い指で確かな意思を持って締めた痕。
 思い出す。冷えた指がのどに絡んだ瞬間。冷めた瞳。一瞬の出来事だった。
 ぁあ、死に掛かったのだと考える。こんな所で死ねない。なのに。
 遠ざけた結果。自分の首を、自分でしめている。噂を広めたのは自分。その位置に就く事を望んだのも自分。後悔をしないようにそうしたのだ。後悔はしていない。
 だって、ジュアも、木々も――いたから。だけど彼らがいないここでは、意味がない。



「母上! なにがしたい!!」
 月を見つめて杯を飲み干す母親に、第二王子は声を荒げた。いつもは穏やかといわれるこの王子と、正妃がそろうと空気は険悪になる。
「シャジャン? あなた、割り込んできて何を言うの?」
 迷惑そうに、正妃の眉の形が歪む。不愉快だといわんばかりに。
「――これほどまで胸騒ぎを感じる事もそうないですから」
 一歩遅れていたら、スカットレシュールの息が止まっていたかもしれない。
「あなた、勘は鋭いのよね。それはいい事だと思ったのに。なにもこんな時に」
 あんな細い首、絞めがいもないわ。
「関係ないだろう! なぜスカットレシュールに」
 ぐたっと力のぬけた体は、まるでこれまで受けた痛みの重さのように重かった。
「役立たずは嫌いなの。あなたも、そうあってしかるべきだったのに」
 ままならない。すべてが。
「母上!」
「騒がしいわね。あなたが私に何を言えるというの? 第二の分際で!」
 がしゃんと、響くような音が立つ。床に広がる赤い液体。割れて飛び散ったガラス。
 息子に睨みつけて、正妃は長椅子から身を起こす。
「はっ」
 つかつかと近づいて、手を伸ばす。振り上げた手をよける事はない。そう教育したのだ。
 だがいつからだろう。この息子がうしろに倒れこまなくなったのは。叩かれるままにおとなしく受けるかと思えば、燃えるような目で自分を睨みつける眼差し。
 気に入らない。
 乾いた音が響き渡る。
 どちらも、引かない。
 わざとらしくため息をついて、正妃は足を進める。
「母上!」
 息子の叫びは、聞こえていないようだった。


 扉を潜って外に向かう母と呼ぶべきを人を見送って、ため息をつく。今回ばかりは、見てみぬ振りなどできはしない。
 それに、昔のように何もできない子供ではない。
 ただ見ている意外に何もできない、という。
 もう、母と呼ぶ人、という意外に何もない。期待も、尊敬も、何も。
 低く笑っていると、部屋の端のカーテンが動いたのが見えた。目を細めて、その影を逃がさないと足早に近づく。
 荒々しく開いたカーテンの裏にいたのは、母の占い師だった。
「……ジャール」
「申し訳ありません」
 老婆は頭を下げる。彼女の占いが、スカットレシュールを呼んだのだ。
「いや。ジャール、母上はいったいなぜスカットレシュールにそこまで」
「似ているからでしょう」
「――なに?」
 意を得た答えが来るとは思わなかった。だが思いがけず、重要な言葉を聞いた気がする。
「レアラ様は、似ているのですよ。あの姫君と」
「どこが」
 滑稽すぎて、笑える。あの母とスカットレシュールの、なにが。
「似ているのですよ」
 真剣に、ジャールは言った。シャジャンは静かに、笑うのをやめた。
「支えとなるものを求めて、犠牲にしてしまったものが多すぎるのでしょう」
 だからだと、ジャールは言った。
 あの母の、どこがとシャジャンは問いかけた。その答えは、自分の中で知りすぎていた事だ。
「レアラ様は正妃でしたが、王の寵愛を受けたのはファリア様であり、ティファール様でした」
 心は、離れて行くばかり。



 ひゅ――と、真横を風が通り抜ける。足をかけた場所が欠けて地面に落ちてゆく。はっとして振り返るが、下にいる兵士にはまだ気が付かれていないようだ。
 なぜ自分の部屋で寝ていたのか、大方の予想は付くが、そうすると部屋の前には多々人がいることだろう。
 誰にも会いたくない。
 だが、なかなか厳しい。これまでのせいかかなり増えている。まさか窓を乗り越えるとは思っていないのか――いるのか怪しい。ほどほどにして中を進もうと、開いていた窓の中に入り込んだ。
 目的地は、決めてある。



 日差しが柔らかい。昼間は暑いくらいなので、朝早くに散歩をする事が多い。国の中で起きている問題について論じる事は禁じられている。
 ただ、自分のためだけに貴重な水が使われている事はわかる。
 だが自分がそれを嘆いたところで、さらにひどくなるだけだろう。
 王の心のより所であればいいといわれても、だ。私は正妃ではない。なのに。正妃とは何かとすれ違ってばかりだ。
 最近の興味といえば、息子の漏らす姫の話だ。自分も同じように、外を歩いてみたいと考えたといえば、息子は卒倒してしまうかもしれない。陛下にいたっては、慌てふためいてしまう。
 そこまで考えてふっと笑っている自分を叱咤する。
 自分だけが幸せでいられるほど、甘くなかった。その幸せの下にその幸せをつかめなかった人がいるのだから。
 幸運をつかんだ女神だといえば、聞こえはいいかもしれない。
 そこまで考えて、暗くなっては、駄目ねと自分を叱咤する。見慣れた景色を見つめた前に進む。小さな庭には、花々が咲き誇り、まるで外の様子とは違うらしい。
 お気に入りで、大切な場所。
 異変に気がついたのは、そっと道を曲がった時だった。
「――まぁ」
 長椅子に丸くなって眠る姿に、口元をはっと押さえる。そっと近づいた時、彼女の口が声を発する。同時に、流れたもの。
「――ジュ、ア……」
 その言葉は、切なくも愛しいと言っている。
 声をかけるのは躊躇われた。けれど、口に出ていた。そう、息子がいつも、そう呼ぶ――
「スーシュ?」


 ぱちっと、覚醒した。勢いよく起き上がって、目の前に人がいた。細い金色の髪がゆるく巻かれた、女性。空色の瞳がとてもきれいに輝いて、目を丸くしている。
 驚いたのはこちらも同じで、声が出ない。
「おはよう」
 にこりと微笑まれて、その笑顔に見ほれたが、しばらくして思い出す。
「――すみません、勝手に」
 白い手が口元まで進んでいる。困っているのだろうか。見た目に身分のある人だろう。この庭が自然にできたとは思えないから、当然持ち主もいるはずだ。城の庭というには、懲りすぎている。
 何より、趣味が違いすぎる。正妃とは。
「あなたなのね」
「へ?」
 その、妙に確信めいた口調と、楽しそうな表情にさらに驚かされる。
「ごめんなさい。私はファリアよ」
「……スカットレシュールです」
 そんな当然のように名乗られても、誰だかわからない。が、とりあえず名乗り返した。
「気に入ったの?」
「ぇっと?」
 なんの事だろう。
「ごめんなさい。もしよければ、一緒に朝食にしない?」
 昨日の夜部屋を抜け出して庭にたどり着いた。そこで、寝てしまったのだ。



「どうぞ」
 なんだか突然すぎて唖然としていると、ファリアさんは手を叩いて侍女を呼んで朝食の準備をさせた。外の、庭の横に。
「ここはきれいでしょう」
「――はい」
 庭がよく見える。
「そんなに緊張しないでも――」
 楽にしてと、言う。そう言われても……どうぞというので、食事に手をつけた。あ、おいしい。
 もくもくと食べていたが、ふと、手を動かしているのは自分だけだという事に気がついた。
 ファリアさんを見て首を傾げる。
「食べないのですか?」
 彼女の皿は、かなり余っている。
「多すぎてしまって。この庭も、陛下が用意してくださったの。今は水がないというのに、常に花でいっぱいであるようにされていて」
 嬉しい、けれど――と影が落ちた。
 やっぱり、王妃の一人なのだろうと頭の中で欠片がはまる。となるとどっちかだ。第二王子の母ではない。
「そういえば」
 問いかけてくるので、はっと前を見て話を聞こうと顔をあげる。まぁこの際どっちでもいいかと思った。
「“ジュア”って、あなたの恋人?」
 いたずらをする前のように、片目を瞑ってファリアさんは聞いてきた。
 びっくりした。



  12.木を離れ知る   目次   14.大樹と木は通ず