『……お前?』
 ひどくしわがれた、ぼそぼそとした声だった。細く、低く。
「ダラン」
 ふらりと立ち上がって前に進む。三人の王子を過ぎて大樹に向かう。
「スーシュ! 危ない!」
 意に反して、ざわざわと動く根は攻撃してこなかった。
 そっと近づいて、根に手を当てる。そして、幹に。乾ききってざらつく幹を撫でて、座り込んだ。
「ごめんなさい」
 ぱたぱたと涙が落ちる。
「ごめんなさ」
 嗚咽が混じって、言葉にならなかった。しばらく、肩を震わせて泣いていた。掌の間から落ちる涙が地面をぬらしていく。
 そっと、木の根が肩に触れた。
『なぜわしの名を』
 言葉は、優しかった。ジュアを思い出して、いっそう泣けてくる。けれど涙を拭いて、大きく息を吸って答えた。
「調べました」
 声は震えていた。口の中もまだ、血の味がする。
『お前は、ルゼのものか?』
「いいえ、私はバイアジュのものです」
『ミルファネーゼか?』
「ミルファネーゼ女王を知っているの?」
 意外だった。驚いて顔を上げる。目の前には、枯れる寸前の大樹がいた。
 それはバイアジュの中でも一つの大きな歴史事象だった。女王ミルファネーゼとその護衛であり軍師の話は、「海賊の娘」というくだりからはじまるお話だ。
 語り継がれるお話であり、歴史事象。“海賊の娘”と称されるように、女王は昔海賊の娘であったと。そして、エダリディーガから国を救った。海賊と、共に。
 彼女の生涯は、女王でありながら海賊の娘という名で呼ばれる。
『シェーネがよく話していた』
「シェーネ」
 知っている。それは、バイアジュの先代の大樹。
「どうして、シェーネと話ができるの?」
 だって、ここはルゼで、バイアジュじゃなくて。私は一人で。
『大地は繋がっている。もっとも、森ではなく荒野となってしまった今では定かではないが』
 ゆるゆると首を振った。違う。そうじゃない。
『――なんだ』
「ジュア」
 もう、シェーネは、いない。
『ジュア? ぁあ、あの小さい大樹か』
 “小さい大樹”笑ってしまった。あの大きなジュアを、私より長く生きているジュアをそんな風に言う人……大樹ははじめだ。
『そうか。もう代替わりが行われたのか』
 はいと、首を縦に振った。
『そうか』
 その言葉は、長い年月を感じさせるかのように、深く、深い言葉だった。
「なぜ」
 なぜ、どうして? どうしてなの? また涙が溢れた。だめだと思いながら止められない。
 静かにダランが根を伸ばしてくれた。背後で、どさどさと何かが落ちる音がした気がする。
 ――ぁあ。とても安心する。バイアジュのジュアの横で、眠っているような安心感。
 大樹の守り。
「どうし」
 見上げた声がまたかすれる。わかったというように、大樹が揺れた。
『本当は、この国を消してしまおうと思ったのだ』
 はっとする。そうしてもいいと思う自分もいる。それだけの扱いを受けたのだ。
『この国の民は、わしを捨てた』
 ぁあと。思う。どうしようもできない。
『だが――そう泣くな』
 よく、言われた言葉と違う。ジュアは泣く事に対しては、何も言わなかった。ずいぶん性格が違うんだと思いながら涙を拭く。がんばってもなかなか止まらない。
『……そうこするな。無理を言ってすまない』
 急いで、首をふった。ジュアとは違うけど。同じだと感じる。気遣いが同じ。
 安心する。
「もし、そうなら、私は」
 もしこの国を滅ぼすなら、私は――
『無理をするなと言っている。無理ではないのかもしれないが、スカットレシュール、お前は人間だろう』
「スーシュと、呼んでください」
『スーシュ?』
「嫌いなんです。スカットレシュールと呼ばれる事が」
『……そうか。……辛いのか?』
 その一言に、ひどく怯えた。
『すまない。口が悪いとよく言われたものだが、――今でも言ってもらえるかもしれんな』
 きょとんと、目をまるくした。それから笑った。むせながらも笑った。おかしい、おかしすぎる。
 やっぱりむせた。
『大丈夫か?』
「……っ……はーーふーー……はい」
 深呼吸。深呼吸。
『スーシュ、か。なぜこの国に来たのだ?』
 なんと答えていいかわからなかった。来たかった訳じゃなかったから。表情によく出るので、ダランはそれをさっしたのだろう。しばらくして、言った。
『そうだな。ジュアと共にいたのに、わざわざこの国に来る理由がない、な』
 ゆるゆると首をふった。ただそれは、言葉を否定するには、弱すぎた。
『気にするな。……だから泣くな』
 悲しまなくていいと、言ってくれる。
『わしのために、泣くな』
 それこそ、泣く事を止められなかった。
『あの場所から掘り起こされて、この場所に捨てられた。あれから徐々に木々を枯らしていった。この国から緑が消え。何も残らず荒野となるように。雨を拒み。大樹の命ならと命を捨てる木々を見殺しにした』
 木々は沈黙していた。すべてが、大樹と共にあるから。
『だが、ここに来て決意が揺らいでしまった』
「ぇ?」
『わしが――わしらが生き延びたいと思う事は、後を継ぐものを残したいと思う思いは、止められなかった』
 私は、ただ聞いていた。口も挟めない。
『――スーシュ、ジュアに会いたいか?』
 唐突な質問に驚く。固まってしまう。けれど、その質問の答えは、決まっている。
「はい」
『そうだな。そうだろう』
「……あの?」
 なんだろう。その、何かを悩むような、その言葉は。
『人間(スーシュ)と樹木(わし)の寿命は違う。大きく違う』
「?」
 ダランは、誰にも言葉を向けていなかった。
『話が、途中だったな』
 そしてまた、言葉が向けられる。
『わしもまたシェーネと同じように、次の大樹を育む時が来たのだ』
「それは」
『スーシュ、お前はわしのために泣いてくれた。木々のために泣いてくれた。それはジュアがお前を愛しんだから、お前がジュアを愛しんだから生まれたものなのだろう。その嘆きを止められるのはジュアだけであり、わしではない。わしはお前の涙を止める事はできない』
 どうしたのだろう。泣いたのは確かだが、勝手に泣いているだけなのだから、そう気に病んでもらうことでもない。
 そう言おうとして、言葉を制された。
『そこまで知ってわしは、お前のその心を利用してしまう。お前なら裏切らないとわかるからこそ、その裏切る事ができないという心をついてしまう』
 そこまで言われて、言葉が痛い。何を言われたのだろう。すぐに理解できない。
『スーシュ、お願いだ。この息子を――』
 目の前のダランの幹の一部が二つに割れる。伸びてきた二本根が大切そうに取り出して、私の目の前に差し出す。首を傾げると、受け取れと言われる。
 両の掌の中心に降りたのは、親指より少しだけ小さい、茶色い種。
 はっとして顔を上げた。
『ティーリスだ』
 その、名前。
『わしの、次の大樹だ』
 震える手に、あわてて返そうと立ち上がる。途中で、根に手を取られた。それに任せると、どうやら種を握らせようとしている。それがわかったから、種をぎゅっと握り締める。
『……あの場所で、育ててくれないか?』
「どう、……して」
『この国をもう一度、緑溢れる大樹を育む国(ルゼ)に――スーシュ、お前になら任せられる』
 “でも、私は”と言えなくて、口をぱくぱくさせる。
『わかっている。お前は、ジュアに会いたいのだろう』
 “ジュア”――ジュアなら、なんと言うだろう。なぜ私は、木と話ができるのだろう。
 この国の誰も、言葉はわからないのに。そこまで考えて、国王の言葉がよぎった。「いずれこの国は砂漠となろう。それを救えるのは――バイアジュの第三王女とジャールが言った」あの時の、言葉。
 だから、私だったの?
「は……はは」
 泣きたい。泣きたいほど悲しいのに、どこか嬉しい。自分の存在価値が、ここで、示されるなんて。
 大樹を愛しむ国(バイアジュ)ではなくて大樹を育む国(ルゼ)で。
 ――ねぇジュア、あなたは、なんて言うのか。わかるの。
 大樹を救ってくれと、スーシュなら見殺しにしないと、笑ってくれるの。
 ――ねぇジュア、もう少しだけ、いいえずっと、待っていてくれるよね。だって大樹は、木々は、ずっと私が死んでもずっと、生きているから。
 ごしごしと涙を拭いた。これだけは言いたい。だから泣かない。
「あのダ……大樹」
『ダランで構わんよ。そう呼ぶものも、木々の中にもそういない』
「ダラン」
『なんだ、スーシュ』
 ぎゅっと、掌を握り締める。しっかり前を向いて、言うの。
「私にできる事を、できるだけするから。がんばるから」
『――いいのか?』
「ジュアは、ずっと待っていてくれるから。それは、わかるでしょう?」
 ダランも、同じだから。
『ありがとう。スーシュ』
「うん」
『ありがとう』
「ダラン?」
 声音が、違う。
『そうだ。これを』
 そう言ってダランがもう一つ何かを根で運ぶ。頭の上に、何かが乗った。手に取ると、元は銀で作られたであろう、ティアラだった。
「何これ?」
『わしを掘り起こした国王の后がわしに持たせたのだ。彼女はわしと言葉は解さなかったが、何かをさっしたのか、一人でいることを不憫に思ったのかは、わからん』
 ただ思いつめたような表情が、忘れられない。
「ふぅん?」
『わしには必要のないものだ。好きに使え』
「好きにって……」
 ごしごしと泥をぬぐう。中央には、水色の宝石が見えた。しばらく見ていた。口元が緩んだ。
『くっ光り物は好きか?』
「笑わないでよ」
 きれいだなって、思ったわよ。
『……ここに来て、あがくとは思いもしなかった。スーシュ、お前が来てくれてよかった』
 ティアラを見つめる私の気が済んだころ、ダランが真剣に話を始めた。その言葉が、どうしてか遠ざかっていくかのように感じた。
『それが例え望まぬものであったとしても、わしは嬉しい。ありがとう、スーシュ』
「ダラン!?」
 みしみしと、みりみりと不吉な音がする。それが、なんの音だからわかってしまった。
 いやっ嫌だ!
「いや!」
『スーシュ、お前に頼んだ時点で、いやもっと前から、決まっている事だ』
「いやぁ!」
『本当に泣かせてばかりだ。――すまない』
 その言葉には、首をふった。痛い。でも構わない。そんな様子を、ダランは静かに見ていた。笑って、いるようだった。
『ありがとう』
「ダラン!」
 びきりと大きな音を立てて、大樹が――ダランが二つに裂けた。



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