まるで、どこかに旅行に来たみたいだった。ここが家になるなんて信じられない。私の帰る場所は、あのジュアのいる場所だ。
 さらさらと流れるシーツの寝台に包まって、思う。そう、数日間城を離れてすごし、帰る。
 ……だけど、帰ると言われて帰れる場所はジュアの傍じゃない。あの木のもとじゃない。
 窓は開け放ったままだった。夜になると冷え始めて、涼しい風が入り込んでいる。だけど、閉めたくない。この閉ざされた空間で、さらにジュアと離れるなんて。
 夜になったら、もしかしてと期待と願いをかけていたが、木々は一向に動かない。まるで岩のようだった。
 怖いと感じた。木々たちが松明を恐れて会話することも、薪となって燃えていく仲間のことを痛む会話も聞こえない。
 あの声が、とても心地よくて、たまに恐ろしくて。森に入って枝を折ろうなんて考えられなくなった。薪を使えることに感謝した。
「ジュア……」
 会いたいよ。だって、私の場所はもう、そこしかないから。自分で決めたの、自分で選んだのに。なのに。
 どうして私は、この国にいるのだろう? どうして、枯れた木々を見る羽目になったのだろう。
 いっそ知らなければよかったのに。
『スーシュ!』
 明るいジュアの声が聞こえてきたような気がしてはっとした。それこそ私は、ジュアとあの国に何も起こらなければ、何も起こりさえしなければ、他国の木々が枯れていても心を痛めることない。言葉をかいさない木々を見ても、どうにかしようとしない。
 それで、いいじゃない。私には、関係ないんだから。
 だけど、今の自分に自由になることと言えば、その枯れた木々の傍に寄ることだけ。
 そして、その木にふれることもできない。――ああ、そう、だ。私はただ、嘆くだけ? なんで、こんな場所に来てしまったのだろう。
 横向きになったほほを、静かに伝うものそれは。
 声を上げまいと唇をかみ締めていた。いつの間にか、疲れた体に睡魔が襲ってきた。
「ジュア……」
 会いたい。



「それで、森で何をしたというのだ」
「これといって何もしていません」
「何もしていないというか、動きを止めてしまっていましたね」
「止まった?」
「ぇえ、こちらも、何がなんだか」
「……泣いて、いなかったか?」
「あの娘がか?」
 怒り狂ったままの国王は信じられないというように目をむいた。ラクルゥは一瞬、瞳に剣呑な色を除かせて弟を睨んだ。
「いえ……その……」
 口ごもったのはリベストで、その話はそこで仕舞いとなった。
「そういえば、雨がどうとか言ってましたね」
「雨など、ほとんど降りはせん」
「そうです」
「だがそんな単純なことすら、知らん」
 重々しい第一王子の言葉に、一同は頷いた。
「忌々しい。それで、明日はどうするのだ」
「森に連れて行きます」
「そんなに森が好きなのか?」
「こちらが、聞きたいくらいです」
 あんな、森が――



 とぼとぼと、森の中を歩いていた。朝になって起こされて、朝食と着替え。侍女達と部屋を出ると、なぜか迎えが来た。
 正直、本当に来たのかと驚いた。
 相手は、一瞬目を見開くように驚いていた。たぶん、昨日泣いた目がまだ赤いのだろう。
 そして今も、うしろからついてくる。今日は一人だった。王子が一人で、他に兵士がいる。
 ぱき、ぱきっと乾いた音が響く。足元には枯れ枝。ただ奥へ奥へと進んでいく。
 日を遮らない森は明るくて、痛々しさを直接伝えてくれる。
 まだ涙腺がゆるいのか、泣いてしまいそうだ。
 大木が倒れているので、足を止める。駆け寄ってみても、何も起こらない。
 まるで、最初から倒れていたかのように――
「……どうして」
 どうして、なの?
 すべての木が生きることを諦めてしまえばこの森は死んで無くなってしまう。
 いつもなら懸命に生きようとする、森の鼓動と意思が伝わらない。私の思いも伝わらない。
 何もかも、死んでいる。死んでいく。最後のあがきと、人間(私たち)を攻撃するのだろうか。
「どうして」
 そっと伸ばし手を伸ばした。枯れた大木に手を当てたところで――
「っ?!」
 急にうしろから手が伸びてきて、伸ばした自分の手が宙に浮く。驚いて振り返ると第一王子が真後ろにいた。
「………ぁの?」
 なんなのだろう。突然。驚いた。驚いたままだけでなく、手を取られたままなので戸惑う。
「……ぁあっすまない。――そんな枯れ木に何を執着する。薪にしかならん」
 後半の言葉が、とても、聞くに堪えないくらい痛い。
 何を言われたのか、理解したくなかった。私と、人の間で木に対する思いは違っていて、私が違うってことも知っていた。
 だから、彼の言葉が普通で、私が違う。だけど、今は――
 手を振り払って、重ねる。何かに祈るように握り締めた手が痛い。無言で唇を噛んで、耐えた。
 しばらくして、傍にいた男を無視するように、先に向かって歩き出した。
「おい? おいっ!」
 背後の声は、無視した。
 とにかく先に進もう。恐ろしいけれど、森と人間、木と人のどちらが本当に恐ろしいかなんて、比べなくても知っている。



「おい!? いったいなんだ!」
 なぜ手を取ったのかわからない。ただあのぼろぼろの木では、また手が傷つくと思った。それだけだ。
 自分でも驚いていた。娘も戸惑ったのか固まっていた。最初は固まっていただけだった。
 だが自分の言葉を聞いた後、娘は何も言わず、黙り込んでいた。
 しかもそのまま歩き出す。なんだというのだ。
「王子? いかがいたしましたか」
 少しはなれた所にいた従者の一人が声をかけてくる。
「あの娘」
 あの時、枯れ木に何を執着するのかと言った時の顔が忘れられない。誰に聞いたところで同じ言葉が返ってくる。そうだ、それくらい普通の言葉が、そんなにも――
「悲しいものか?」
「は?」
「そうか」
 あんなに悲しそうにした。いや悲しいだけじゃなく、だがなんと言えばいいのかわからない。あんなに衝撃を受けていた。
 悲しみ、痛み、苦しみ――? 違う。驚き?
「行くぞ」
 とりあえず、見失うわけにいかない。



 この森の中央付近は、まだ緑が見えた。ちらほらといった所で、枯れ木になりそこなった感じだ。
 でも今は、その少しの緑を求めた。
 うしろから付いてくる気配は距離を取っているようで、少し離れている。本気で撒いてしまいたい。
「ぎゃぁっ!」
 撒くどころか、こけた。
 ばたばたと駆け寄ってくる気配がある。
「っだ〜〜なんだって」
 周りを見渡して驚いた。枯れて腐った大木、陥没した地面。
「……私がそんなに重いと」
 そういう問題ではない。わかっている。だからこそ。
「どういうことよ!」
 折れた大木の避けた部分にざっくりとふくらはぎをやられて、その日は強制的に城に戻された。



 次の日はおとなしくしていろと言われたが、無視した。
 さんっざん城を逃げ回ったあと、どうあってもおとなしくできないと判断したのか、ひざまで届く長いブーツに長袖に長ズボンが用意された。
 今度は第二王子だった。比較的やさしいと言うか、私みたいなのが信じられないというか。興味深そうに観察されていた。
 昨日のように突然地面が陥没したり、枯れた木が地面の下に埋まっていたりした場合、その上を歩くのを避けるため兵士が先を歩いている。
 いったいいつになったら、中心までたどり着くのだろう。
「何か不安でも?」
「は?」
 これだ。どこか私の思いのひとつを見透かすかのような言葉。
 怖くて、怖くて仕方ない。森は、木々は沈黙したまま。このままあの中央に向かっていいのだろうか。
 残った緑でさえ、言葉を介さないかもしれない。木にすら相手にしてもらえなかったら、私の存在の意味がない。
 木と言葉を介すことだけが、私にできて、私にできる唯一のことで、それ以外何もない。王女らしく振舞うことも、二人の姉に劣ってもせめて人並みに……
「傷は痛みますか?」
「いいえ」
「森の中心と言っていましたね。方向は大丈夫ですか」
「大丈夫」



 何を言っても、帰ってくる返事は一言。一向に変わらない表情が、何か思いつめるように厳しくなっていく。
 あの時、迷子になった。ずっとそのままだ。
 兄に聞いた話だと森の中央を目指しているということで。そして枯れた木を見ている。森に入ると人は目に入っていないようだと。
 スカットレシュールは森の中心に向かって歩いているが、時々、立ち止まる。
 その、進む道を外れて歩く時ですら兵士に先を歩かせる。その手間にいらだったのか立ち止まるだけだ。
 その腕が木に伸ばされて落ちる姿を、何度見たのだろう。



 ――ねぇ、おきてよ。
 どうして、忘れているの。覚えてないの。生きているの?
 話してよ。ここは森の中なのよ。雨が降らないとか鳥の巣があるとか新芽が出たとか。旅人に枝を折られたとか! いろいろあるでしょう!!
 人間を罵っても、人間に怒ってもいいわ。そうやっていつものように、周りと会話してきたんじゃないの?
 どこを見ても枯れ枝と枯れ木ばかり。空だけは青い姿がよく見える。遮るものが何もないから。
 ふっと、青に緑が映った。
 制止の声も聞かず、鈍く痛む足も忘れて、走り出した。
 森の中央に、まばらに残る緑の木々。ただ最後の希望にすがるように、走りこんだ。
「――ねぇ!」
 生きてる?
 かろうじて水を吸い上げているのか、表面はまだ生きている。だけど、枯れるのは時間の問題かもしれない。このままでは。
 しがみついて、声を上げても、何もない。
 何も言わない。起こらない。この、木も。あっちも、こっちも。緑の木々すべてが。
「ねぇ! ねぇってば!! 私は、私は――」
 あなた達の声が、聞こえないの――
 幹に手を叩きつけるようにすがった。細くて、背が低い。この木。ささくれ立った表皮は痛い。
 何も、感じない。
「ぁあ。――どうして」
 声が聞こえない。ぺたりと座り込んだ大地は乾ききって、細かいひび割れができていた。



「どうして、か」
「はい。なんでしょうか、いったい」
「知るか。こっちが聞きたいくらいだ」
 木にすがって、泣き出すなど。放心したように座り込んだ所を連れ帰ったようだが。
 帰りはおとなしかったと聞く。
「で」
「で、とはなんでしょう兄上」
「父上はなんと?」
「相変わらずですよ」
 シャジャンは手を上げた。もうお手上げだ。あれ以上父の機嫌を損ねる気もない。余計な口出しはしなかった。



「ぇえっと、ス……スカットレー? じゃなくて、スケットじゃなくてスコットでない」
「……なんですか、リベスト王子」
 いい加減で、その間違いやめてくれる。つーか最初間違えなかったじゃないの。続かないのか!?
「まず、その王子ってのはやめてくれないか?」
「なんでですか?」
「……まぁいいや。それでえっと、スカットラ――じゃなくてレ――」
「スーシュ」
「スーシュ?」
「国では皆そう呼びます。長いので」
 その話をしたのは初めてだった。いや、ルゼにきて、初めて好感の持てる呼ばれ方だった。間違い以外は。
「じゃぁスーシュ」
「なんですか」
 この第三王子は私のひとつ歳下ということで、言ってしまえば子供だ。上の二人に比べれば幼い。あの二人が歳よりも老けていると思えばそれですむ。
 本当は、スーシュとこの国で呼ばれることは気に入らないので黙っておくつもりだった。
 けれどなぜか、この第三王子にはさらっと言える。――なんだろう。動物みたいだからかしら。



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