暮れきった空。暗闇を照らす月明かり。お世辞にも明るいとはいえない中を歩く。
 枝で足を切って、幹で腕をすって、ころんでも。
 もう走れない。だから歩いた。
 ジュア、そしてあの緑を。

「助けて」
 言葉は、返りはしなかった。
「ぅわぁぁぁぁあああーーー!」
 崩れ落ちるように足が止まる。あの唯一緑を称えていた木の葉は落ちて、枯れる。
 木々の声も、聞こえない。
 暗闇に、森の中に、一人きり。

 所詮、私も、人間の一人にしか、すぎないのだ。
 特別であるなんて、思い上がった。



 兄は急用で城に呼ばれてしまったので、一人で森の中に足を踏み込んだ。――否。一人きりという表現が適切であるかといえば、違うが。
 誰かが付いていることなど、なれきってしまった。今更、数に含まれない。
 弟はようやく行き先が思い当たったそうで、今向かっているらしい。待っていられない。
 ふっと、風が吹いた。先ほどまで、風も雲もない、きれいといえば綺麗で、不気味といえば不気味な空の下を。
 いぶかしむ様に眉根を寄せる。――声が、聞こえてきた。
 枯れた木々だけが、動きを止めていた。


 森の中心に向かって歩を進めるたび、かすれた声が聞こえてくる。悲痛な叫びが、森の中に響き渡る。
 なぜ泣く? そう言った兄の言葉が思い起こされる。
 せき止めていたものがすべて溢れて流れるかのように泣いている。
 暗闇の中、その姿だけが見える。座り込んだその木は、少し前に緑を残していた木。もう、また、やはり――枯れたか。
 そういえば、あんなに感情をあらわにする姿を見て思い出す。自分が、あのように泣いた事が思い出せない。
 せめて兄のように不快感を表すならまだしも、弟のように屈託なく笑う事などもってのほかだ。
 まして、声を上げて泣き崩れた事など、あったのだろうか?
「――王子?」
 低く笑った自分をいぶかしんで、従者の一人が声をかける。それを制して、口元を押さえる。
 彼女はまだ泣いている。どこからそんなに、感情とエネルギーが溢れるのだろう。
 そして自分は、いつから感情を欠落させて生きてきたのだろう。それはきっと、物心付いた時に接した、母の。
 けほっと何度かむせるように声を上げるスカットレシュールの声を聞いた。少しの間反応が鈍る。もとの自分に、戻る間。
 どうしたものかと考える。ぼさっとしてれば弟が走りこんでくるわけだ。
「……スカットレシュール」
 明かりは、焚いていない。この枯れ木ばかりの森で火をつけようなどと考えたくもない。
 言葉は届いたようで、突然彼女は振り返った。月明かりが照らしているので、逆行になる自分をしばらく見つめて、はっとしたように袖で目元をぬぐっている。
 その顔は、誰かを期待して、裏切られた時のものと同じだった。


 わかっていた事だった。ジュアじゃない。だってジュアはここにいるはずも、来るはずもない。
 わかっていた。
 わかっていたのに、期待した。
 ジュアなら、スーシュと、いつものように呼んでくれるはずだった。


「……」
 心配しますと、口を開きかけて閉じた。それはなぜだかわからなかった。
 ただ、沈黙が深くなった事はわかる。
「帰りますか?」
「――ルゼの城に?」
 まるで、さげすむような、冷たい声だった。
「そうです。少なくとも、あなたを迎え入れた国として」
「いつから、いたの」
「はじめから」
「バカみたい」
 酷く、滑稽な話だ。
「ばかみたい」
 二度目に呟いた言葉は、誰にも向かっていなかった。彼女が、自分に言い聞かせているようだった。



「スカットレシュール! よか……ジャン兄?」
「遅いですよ。リベスト」
「そもそもジャン兄とルゥ兄が出てこなければ何事もなかったんだよ!」
 はじめて、第二王子が第三王子に言い負かされている瞬間を見た。第三王子は、兄に出番を持っていかれたようで不機嫌だった。
「なぁスーシュ!」
「……仲いいわね」
 弾かれたようにこちらに会話をふってくる第三王子の言葉に、私はそんな言葉を返していた。
 二人の姉同士は仲がよかった事は覚えている。私は、姉二人と言い争った覚えはない。彼女らが声を荒げる事はあっても。
「……スーシュ! そうじゃないだろ! ジャン兄とルゥ兄が邪魔したんだぞ!?」
 きょとんと止まった第三王子が再び騒ぎ出す。
「そうね」
 もういいわよ。どうでも。
「ってスーシュ!?」
 さくさくと歩き始めたうしろを、第三王子が追ってくる。夜でよかったと思えるのは、こすった目が見られなくてすむからだろうか。
 そう思って出口に向かっていたら、松明の明かりが見えた。とっさに、足を止める。
 うしろであわてたように止まる気配がある。
「スーシュ?」
 静かに、舌打ちを飲み込む。あんなに明るくては、顔が見えるではないか。おそらく、ぐちゃぐちゃで、ぼろぼろの服装も。
 かといって朝になってしまえば、同じだ。
 やっぱり舌打ちをしようと心に決めた。その時。
「馬車を用意させているし、彼らは離しておくよ」
 そう言った第二王子の事は、振り返らなかった。すると彼は先に行ってしまう。
「ジャン兄?」
 いぶかしんだ第三王子が一歩進み出て、私を振り返った。すると、はっと息を飲んだ。私は目を伏せた。暗がりに、遠く照らす松明の光。そして頭上の、月明かり。
 赤くなった目が、見えたのだ。

「行こう」

 第三王子の声が、した。第二王子は、視界の先で指示を出していた。
 動こうとしない私の手を、第三王子は引いて歩き出した。手が引かれるがまま、歩き出す。
「なんか、……ごめん」
「……?」
 振り返ろうとしないまま、謝罪が聞こえた。
 ぼうっと顔を上げてみていると、第三王子が振り返った。
「せっかく、楽しんでもらおうと思ったのに、こんな事になってごめん」
 私は、静かに首をふった。
 好意は、どこ場所でも同じなのだと安堵がよぎる。木も、人も。私の知る限り。
 それだけは、同じ。


 一人きりで乗り込んだ馬車の中に、毛布があった。そうまでするほど寒い陽気ではない事は知っていたけれど包まっていた。
 丸くなって、心と、体を休めるように。

 次に目が覚めた時、私は与えられた自室にいた。

「あれ?」
 すっかり寝巻きに着替えて、寝台の上にいる。まさか着替えさせたのが彼等だとは言わないが、驚く。
 すっかり、あの馬車の中で寝てしまったのだ。せめて運ばれてる途中で目が覚めないものか。
 はぁと、ため息を付く相手は自分だ。
 ぽすっと布団の上にまた身を沈める。仰向けに見上げる天井。考える事は、ひとつだけでいい。
「枯れてた」
 枯れてしまった。あの森の木も。
 森は、荒野に。



「いい身分だなあの小娘」
 低い声に、ぎくりと身を震わせるのはリベスト、ラクルゥとシャジャンは、表面上は動きを見せずにいた。
 その互いの思いは、違っても。
「父上、いちおう書類上はそうあってしかるべきの身分にいますよ。彼女」
「それが一番気に入らん!!」
 最近の食卓は、王と王子がそろう変わりにおいしい食事をするということが犠牲になっている。
 王は常に不機嫌で、テーブルに拳を叩きつける。硝子と、銀食器が床に叩きつけられる事もある。
「あの奇人め、いいように取り込みはじめるきか……」
「父上。そういえば、なぜ彼女が“三番目の奇人、国の不穏”なのでしょう。ねぇリベスト」
「へっ!? ぇえ!?」
「リベスト……」
 口にパンをほお張っていた弟に呆れたように視線を送るシャジャン。
「彼女――奇人には見えないでしょう?」
「何をばかな」
 国王は吐き捨てた。
 もぐもぐとパンを食べていたリベストが、コップのミルクを飲み干して、答える。
「そうだよな。別に、ホントに噂通りにおかしいとは、思わないけど」
「ですよねぇ。まぁ単に噂であったのですから、多少のズレはあるでしょうけれど」
 でも、と彼は言葉を切った。
「噂してまで評判を下げなければならなかった」
「そうです兄上。そうでなければ一致しない」
「あの〜話が見えないんですけど……」
「彼女が、自分からあの噂を流したと考えられるんですよ」
「自分が国の不穏だって? なんでだ?」
「そんなの――本人に聞いてください」
 そこまでは知らないとシャジャンは言う。ラクルゥも静かに頷いた。しばらくかごの中から次のパンを選んでいたリベストが口を開いた。
「ならそうだったとして、やっぱり……」
 ふっと、リベストは言葉を切った。
「スーシュはこの国に来たくなかったんだよな」
「わしだって迎えたくはなかったわ!」
 いらだちが収まらない国王は、荒々しく部屋を出て行った。それに、静かにため息を飲み込んだその時。
「ぅわっ!?」
 高い声に誰もが振り返った。開かれた扉の向こうに、スカットレシュールが立っていた。
 なんて、タイミングの悪い。
 国王は憤慨したまま、スカットレシュールを押しのけるように食堂をあとにした。
 確かに、食事は食堂で取るように伝えてはいたが――シャジャンは額に手を当てた。
 ラクルゥは、食事を再開した。
「スーシュ! おはよう!」
 リベストは暗い空気を押しのけようと、勤めて明るく言った。
「なに、あれ……」
 そしてスカットレシュールはリベストの挨拶を聞いていなかった。
「スーシュ……」
「へっ!? えっと? おはようございます?」
 嘆く声に、スーシュがリベストを振り返った。
「おはよう、よく――眠っていたようだけど?」
「おかげさまで」
 むっとしたのかスカットレシュールの言葉に棘が含まれている。
 そして、先ほどとは違い騒々しい(主にリベストが)食事が、はじまった。



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