暖かくて、時折、どこか寂しい声が聞こえていた。
 たまに、違うもっと太くて硬い声も聞こえていて、早く帰ってきてと願っていた。
 そして、また、暖かい声に包まれる。
 静かな、言葉。
 早くとせかされても、遅いと嘆かれてもいない。
 安心していた。心傾けていた。
 まどろみに、歌を聞いた。

 あの声の主に会いたいと思った。けれど、あった途端声が聞こえなくなってしまったらどうしようと思った。
 時の流れに逆らわず、僕は外に向かっていく。
 心待ちで、恐ろしい。

 どうやら、声の主は彼女、であるらしい。
 彼女は、ずっと傍にいてくれる。ずっと。暖かさに心が満たされる。
 彼女は、誰なのだろう。
 彼女の言葉は、静かに浸み込んでくる。
「―――――」
 彼女がその言葉を呼ぶ瞬間が、大好きだ。
 言葉が、音色が大好きだ。その音が何を言っているのか、わからなくても。

 温かい言葉、温かい土。
 今日は少し違う、何かが浸み込んでくるような音。流れる音。
 こんな日は彼女の声はかすれてしまって、よく聞こえない。
 それは残念に思う。でも流れる音も、彼女の声の次に好きだ。浸み込んでくる。
 何かが、何か。なんだろう。
 彼女とは違う別の何かに、包まれてゆくようだ。

「―――」
 気がついたことがある。彼女の声の中で、僕が聞く中で一番、辛い声。
 その声を聞くと、切なくて、悲しくて、泣きたくなる。
 彼女が泣いているようだと思った。その声を聞く。彼女がその言葉を言う瞬間だけは、ただ、切ない。
 僕も、辛い。でも、本当は彼女が辛いんだと考えた。
 それが何かわからないけれど。
 ねぇ。泣かないで。呼んでよ。
 そのあと、彼女を僕の一番好きな音を発してくれる。だから僕はそれが嬉しい。
 けれど、やっぱり、彼女の切ない声が頭の片隅に残っている。


 その声を聞きたいと思った。もうすぐだと思った。
 もうすぐ、会えるよ。
 喜びと、切なさが混じって、芽を伸ばす。
 もう、すぐ。


 周りの木々の言葉が大きくて、彼女の声が聞こえない。知っていたのは、僕の言葉にあの木々たちが従うという事。
 そして、彼女の声を聞いた。
『スーシュ』
 名を呼ぶと、笑ってくれた。
 はじめて見た彼女は、とても驚いていた。今にして思っても、あんなに目をこすらなくてもよかったと思う。
 そして、彼女は、静かに笑ったんだ。とても、嬉しそうに。




 スーシュが離れて行ってしまった。どこに行ったのかわからない。
 木々たちは、森にいるとわかっている。感じていたのに。僕にはわからなかった。
 たぶんまだ、大樹は感じ取れないのでしょうと言われた。
 そんなの、嫌だ。
 スーシュがどこに行ったのか、僕にだけわからないなんて嫌だ。
 だって、スーシュ。
 本当はいつか君がどこかに行ってしまうって理解していた。けれど納得したくなくて泣いた。
 わかっている。わかっているから悲しい。
 消えないで! いなくならないで!
 離れないで!!

 泣いた。

 そうすれば来てくれると確信していた。今は、まだ。

「ティーリス」

 スーシュの呼び声だけが、僕にとってただひとつだった。



 スーシュが僕のもとにいると……なぜか他に人がやってくる。彼らがこの国のもので王子だとスーシュが説明してくれる。
 よくわからないけど、上の二人にはあまり歓迎されていない気がする。もともと、この国の人間は冷たい。
 僕は、スーシュだけいればいいのに。
 と思っていると、三番目の王子がやってくる。彼は、僕に好意的だ。
 幹によって耳をすまされると、なんだかくすぐったい。でも彼が、僕を邪険に扱っていない事は、感じる。
「でもあなたが大樹を思っている事は、ティーリスに伝わるのよ」
 かつて、人も僕達も、お互いを思っていたんだ。

 静かに、時は過ぎて行った。僕は日に日に大きくなって、ある程度でその成長の速度が弱まる。
 もう、スーシュを見下ろしている。いつもスーシュは、木陰の下で心地よさそうにしている。
 時折、前の大樹のもとに行くといって、森に行ってしまう。もう泣く事はないよ! って、スーシュにからかわれても言える。
 でも……
 帰って、来るよね。スーシュ。
 はいと、答える。その笑顔が、時折、ひどく切なく感じる。


 その日の雨は、僕でも冷たいと感じるくらいだった。なのにスーシュは隣にいる。スーシュと呼びかけると、反応が鈍い。寒さに震えているのが、見えた。
 だから、部屋に戻るように言った。スーシュが倒れてしまうのは、嫌だ。
 だけどそれは、遅すぎたようだった。
 いつも、厳しい顔をして僕とスーシュを睨むあの第一王子が、相変わらず顔にしわを寄せてやってきた。
 何事だろう。スーシュもいないのにと身構えていると、彼はしばらく何も言わなかった。言えないでいるようだった。
 その様子がおかしくて、僕は彼を観察する余裕ができた。
 なんだか、あんなに怖いと思っていた人が、こんなに困っている姿を見ると面白い。
 しばらくして、彼はスーシュが倒れたと言った。命に、別状はないけれど、ここにはこられないと。
 ――ぁあ、やっぱりと、僕の中で何かがよぎった。


 スーシュは来なかった。
『スーシュ、こないね』
『それが、部屋の中を覗ける木が言うには、体調を崩しているようです』
『うん。さっき、スーシュが王子だと言っていた一人が来たよ。しばらく黙っていたけど、スーシュは命に別状はないけど熱がひどいと言っていた』
『大樹?』
『僕は、望んではいけないのかな』
『大樹』
 木々たちはもう、何もいえない。
『わかって、いるんだ。本当はスーシュは――』
 それから先を、大樹ティーリスは言葉にしなかった。そして、大樹は沈黙した。
『……スーシュは、帰りたいんだよね』
『大樹?』
 言葉を紡ぐと、木々たちが心配そうに声をかけてくる。
『だけど、スーシュは、ここにいてくれるんだ』
 もう、どの木も何も言わなかった。
『スーシュは、困っているのかな』
 それが熱を出した事と、関係はないのかもしれない。だけど、
『スーシュは帰りたいんだ。それを僕が引き止めているんだ』
 あの頃、僕が土の中で眠る頃、スーシュは名を呼んでいたじゃないか。僕の名ではない。あんなに切なそうに、悲しそうに、苦しそうに、――嬉しそうに。
 木々たちが大樹と呼んでいた。僕は気がつけなかった。彼らがスーシュを追い詰めている事に。


「ごめんなさい」
 数日後やってきたスーシュは、すまなそうに頭を下げた。僕は言った。
『元気になってよかった。スーシュ』
 そういうと、何かに気がついたようにスーシュが顔を上げた。恥ずかしそうに言う。
「話を――誰かに?」
『うん。あわててここにやってくる途中でまた熱が上がったって、無理しないで、スーシュ』
「ぐ……」
 言葉に詰まっている。第一王子も、案外律儀なんだなと思ったよ。
「もう平気よ!」
 元気だと笑顔を向けるその姿が、なぜか痛々しい。
『ねぇ。スーシュ』
「ん? 何?」
『スーシュは、……帰りたいんだよね』
 その顔が、はっと表情を変えたのを、見逃さなかった。ぁあ、やっぱりそうなんだと、落胆する。
 わかっている。わかっていた。だけど――
「それは」
 スーシュは困っていた。困らせたいわけじゃないのに。
『だってスーシュは、バイアジュの大樹と仲がよいのでしょう』
 いいんだ。わかっているんだ。ただ、寂しくて。
『わかるんだ。僕がスーシュを望むように、同じようにその大樹はスーシュに会いたいんだ』
 ごまかしは聞かないと、絶望的な目でスーシュは僕を見た。
『僕がスーシュを望む気持ちと同じなんだ。僕はスーシュがいなくなってしまうのは嫌だけど、でもバイアジュの大樹に、僕が同じ思いをさせてしまっているんだ』
 もう、泣いてしまいそうにその目が揺れている。ぁあ、お願いだスーシュ。
『泣かないで、スーシュ』
 優しい子。大好きなんだ。
『僕は大丈夫』
「ティーリス」
『大丈夫』
「ティーリス!」
 叫び声が、すべてを物語っている。嬉しさと、悲しさと。両方、感じ取れるんだ。
『ありがとうスーシュ、君はいつも、僕のために泣いてくれるんだもの。だから僕は、ぼくに、できることは……』
 いつの間にか、僕も泣いていた。心が、こんなにも痛いなんて思いもしなかった。
『スーシュ、ありがとう』

 ありがとう。






 スーシュがいなくなってから、城内は静かになった。そう、静かに。
 なんだか、城の人も落胆しているように見えるのは、僕の気のせいじゃなかったみたいだ。
 相変わらず、三人の王子はかわるがわるやってくる。
 第一王子は不機嫌そうに、僕を睨むんだ……ぅうっ怖い……
 第二王子は、手持ち無沙汰なのか水をかけてくれる。日増しに伸びていく木が、面白いのかもしれない。
 第三王子は、敷物にお茶にお菓子を持参して居座っている。スーシュに言われた言葉を、よく呟いている。
 思いは、伝わると。


 ぁあ、スーシュ。ねえ。君の言葉と、行動と好意が、ここに根付いているんだ。
 きっともう、この国は大樹を見捨てたりしないよ。彼らが大人になって、そして僕が見える景色が様変わりしても、きっと。
 この空の下に、僕はいるよ。

 大地は、繋がっているよ。




お わ り