23

 後ろは振り向かなかった。ただわき目も振らず走っていた。目的地は、ひとつ。
 いろんな事が頭の中をよぎって、涙が滲んできた。でも泣きたくない。唇を噛んで走った。
 御爺様。船長。海賊。戦争。お父様。お城。シギ。……王女。ミルファネーゼ(わたし)は、私の道を歩くのは私なの!

 裏路地に入って、この前の扉を探す。この国のことはまだまだ知らないことが多いが、この場所だけは忘れていない――はずだった。
 飛び込んだ場所は、酒場で、昼間だというのに薄暗くて、フードで全身を隠した男、体中に縦横無尽に走る傷を見せた男。酔いつぶれることを望んでいるぐらい酒瓶を飲み干す男。
 まるで、外が昼であることを忘れさせてくれる残された夜。いくつもの鋭い視線が、私に突き刺さった。
「っ」
 動けなかった。――怖くて。でもここではないと頭は告げていた。早く、早く扉を閉じて! ここから離れて! ――逃げて!!
「ぉやぁ? こんな所に何の用だい? ……“お譲ちゃん”」
 最後に強調された言葉が、身体に纏わり付く。振り払えない酒気の匂い。これから獲物を狩りに出る獣の目。
「……ぁ」
 男が、一歩、また一歩と近づいてくる。逃げて! 逃げて!! 頭の中では警鐘恩がなり続ける。
 逃げるのよ!
 はっとして、身体を反転させる――それを呼んでいたのか、男の手がミルファネーゼの腕をつかんだ。
「やっ! は、放して!!」
 途端に店の中に響き渡った楽しそうな笑い声。誰も、助けてはくれない。
「放せだとさ」
「そうだろうな」
「しかし、上玉だな」
 個々のテーブルで交わされる会話はまったく頭に入らない。ただ強くつかまれた手を振り払おうと必死だった。
「連れに何か?」
 すると、頭の上で声がした。忘れもしない。あの時の。はっとして、正直ほっとして力が抜けた。しかし、手をつかんだ男の舌打ちが聞こえて震えた。
「なんだ、お前の連れか。ずいぶん躾が悪いんじゃねぇか?」
「いや、馬鹿の相手はするなと言ってある。上出来だ」
「んだと」
「自分から認めてくれるなよ」
 くくくと、スクリームが笑う。男たちはいらだち、声を荒げる。テーブルの椅子が、けり倒された。
「おおっと、相手はこっちさ」
 スクリームが指を鳴らすと、窓から男たちが入ってくる。酒場には、叫び声と怒声が響いた。
 ミルファネーゼだけは一人、取り残されたようにぽかんと立ち尽くしていた。
「行くぞ」
 突然腕を引かれて、酒場を後にするまで。
 その手の力と、暖かさが違う。どこへ、行こうとしていたのか。
「まったく、何しにきた」
 早足で進みながらも、いらだちの混じった声が頭上から聞こえる。はやる息を抑えて顔を上げる。
「……おしえて」
 うしろから、いたぞー! と声が聞こえた。
「話は後だな」
「ぎゃぁ!?」
 抱えあげられて、運ばれる。そして行き止まりの先を、乗り越えた。


 地下水路を通って、先日と同じ建物にたどり着く。この前と同じ人たちはまたあきれたようにこちらを見ている。
「お頭、なんだって連れてきたんですか?」
「……成り行きだ」
 何かあれば、また疑われる。
「まったく、迷惑ですね。いいご身分でしょう王女様。自分の行動の結果は、誰かがかぶってくれるのですから」
 突然突きつけられた、憎しみのこもった言葉に声が出ない。だって、その通りだから。本当に、ただの役立たずだ。
 泣きたくなかったけれど、自由なのは涙を流すことだけだった。
「ロー、やめておけ」
「………はぁ」
 男は嘆息して、お手上げだというように手を上げながら部屋を出て行った。
 それを、足音が遠ざかるので知った。顔は、上げられなかった。ほほを流れることない涙は、床に落ちて跳ねた。
「はあ、まったく……」
 スクリームはローが出て行った扉を見送って、額に手を当てる。それから布を取り出して、ミルファネーゼの顔をごしごしと拭き始めた。
「ちょっ」
 いやだというように、ミルファネーゼが暴れる。
「おちつけ、そのままでいる気か?」
「っ」
 何をしにきたのか、忘れてはいない。だけど、涙が止まらない。きっとまたシギは私を探して、お父様も心配するだろう。
 ぴたりとおとなしくなったミルファネーゼにいぶかしみながらも、スクリームはその顔の涙を拭き続けた。数分。泣き止むまでの時間だ。
「お頭、入りますよ?」
「ああ」
 そろそろ涙も乾いてきたころ、扉をたたく音がした。入ってきたのはゼルと呼ばれていた男。
「どうぞ、暖かいですよ」
「ぁ、ありがとうございます」
 座らされていた椅子の前のテーブルにコップが置かれた。ふわりと甘い香りがする。はちみつだ。……なんであるんだろう?
「あまっ」
「お頭のには入れてませんよ。誰も使わないので余ってるんですから」
(余り?)
 疑問を持ちながらも、香りに引かれてコップを手に取る。一口飲んで、もう一口。
「で、何しにきた」
 握っていたカップをテーブルに戻して、顔を上げた。
「エダリディーガが、来るって」
「そうだな」
「どうして」
「……知らないのか」
「教えてもらえない」
「そうだろうな」
「教えて」
「なぜ」
「なぜって、だって、誰も教えてはくれないから」
 そうだろうなと、舌打ちをしたい気分だ。
「お前は王女だろう、誰でも従えればいいじゃないか」
 そういうと、顔が凍りついて、ひどく悲しそうにする。また泣く気かと身構えたが、それはおきなかった。
「誰も、何も教えてはくれないから」
「知らないほうがいいからだろう」
「だけど!」
「お前は、弱すぎる。すべてを知れば危険が及ぶ。知らないほうがいいと思われても仕方ないだろう」
 弱い。
 何もできない。
 船の甲板から落ちて溺れかけた記憶がよみがえる。そう、あの日も甲板に出てはいけないといわれていたのに。ほんの、少しだけと。
 そして波に攫われた。あれも、今考えれば、私をここに帰すために生かしておかなければなからなかったから? ――わからないよ、御爺様。どうして、どうして私を生かしたの?
 だって私なんか、ここにいても迷惑になるだけ。
「……っ」
 今にも泣き出しそうになりながら、だけど泣けずにいる。かすれた声は、何も言えない。
 部屋の中は沈黙した。
 一瞬、言い過ぎたかと考え、思い直す。問題はない。非難するような視線が向けられたが、そんなものにかまってはいられない。
 例外は、認められない。
「………お頭?」
「あ〜はぁ」
 だから、なぜ俺が非難されなければならないんだよ。
「――そんなに知りたいのか」
 うつむいたままの私に、かけられた言葉。それだけは必要だと、頷いた。
 娘がしっかりと頷いたのを見届けて、息を吸った。その間に、ゼルの手が間に伸びた。首を振った。教えなければ、帰りはしない。知りたがったのはこいつだと言うように。
 口を開きかけて、ゼルは壁際に向かった。わかっている。――わかっている。
「“エダリディーガとバイアジュの婚姻を否定し、さらにわが王子に無礼を働いた報いを”」
 がたりと、椅子が倒れる音がした。立ち上がった娘の顔は、白い。歯と歯が合わさってなっている。言葉を、声にすることができないようだった。何か呟いて、震える手を握った。
 意味が取れたのは、一言。
“わたしが――”
 ついで吹き抜ける風、走り去る影。開かれたままの扉。遠ざかる足音。
 下の階で、誰かにぶつかったあと、入り口から外に向かう。どこに行くきだろうか、いられる場所などひとつしかないのに。
「頭」
「なんだ、また説教か?」
「いえ……」
 ゼルもいまひとつ歯切れが悪い。エダリディーガは前々からこの国に攻め込む理由を探していた。いつか、また戦争に発展することなど見て取れた。
 そして、利用された。
 あの娘がどういう経緯でここに来て、それまでどうしていたのかを、詳しく知っているわけじゃない。
「もう、城には帰らないでしょうね」
 それは、そうだろう。だが、
「保護されるだろう」
「そうですね。どこかで、また、厄介ごとに捕まらない限りは」
「………何が言いたい」
 また、含みのあることを言ってくれる。
「今度目の前に現れた時は人質であるなんて、冗談にもほどがあります」
「俺には関係ないね」
 あの娘にそこまでの価値はない。
「別に、あの娘が自滅しようがどうしようが関係はありませんが――あんな所で、あんな風に助け舟を出されたら狙われる可能性は大きくなるでしょうから」
「……お前、誰の味方だ?」
「もちろん、お頭ですよ。だた、そのせいで厄介なことになるのはごめんだと」
「放っておけばいいだろう。死ぬ時は死ぬんだ。それだけだ」
「そうですね。あんな世間知らずの娘じゃ、真っ先に騙されるか、捕まるかして、頭に捨てられて死ぬのが落ちですね」
「………」
 だから、何が言いたい何が。
「別に、ただありのままの事実ですよ? こんな裏通りに放っておけば、すぐにまた捕まるでしょうね」
「知るか」
 それだけ言ってスクリームは立ち上がった。部屋を出て自室に向かい、乱暴に扉を開けて乱暴に閉める。ゼルの言葉が頭の中を巡る。
“次に現れた時は人質”“狙われる可能性”――どうでもいい。どうでもいいだろう。どうせすぐにシギ・ファンに捕まって……
 そこまで考えて、はっとさせられる。
 この前あれだけ殺意を向けてきたシギ・ファンが、こんなに簡単に城を抜け出すことを許可するだろうか。いや、城を抜け出せるようにするだろうか。
 答えは簡単だ。そんなはずはない。
 包囲網を掻い潜って、あの娘はここまでやってきたのだ。一人で。そしてもう、城に帰ろうとはしないだろう。
 ならば、次に向かう先は?
 兵士の目を掻い潜って奥へ、裏へ。
“あんな所で、あんな風に助け舟を出されたら”
 怨みを持つ者がいないとは、言えない。逆だ。
 ……別に気に留めることはない。さっき自分で言ったではないか。引き換えに殺すといわれればそうすればいい。自分は関与する気はない。
 だがそれを知ったシギ・ファンは、どう解釈する? いや、それはたぶん、何かを納得させるために自分に言い聞かせている言葉で。
「〜〜〜」
 ぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。
 まだ捕まって戻ってくるぐらいならいい。これが切り裂き魔や強姦に会いでもすれば――
「俺には関係ねえよ!」
 何かを振り切るかのように、向かいのテーブルにこぶしを叩き付けた。ミシリと鈍い音。音もなく流れる赤。
パタッ
「?」
 流れ落ちた赤が、反射した。疑問に思って足元を見れば、一枚の紙。鷲の印の押された紙。思い起こされる、首飾り、腕輪。自分の言葉。
「――ぁあ、そうだな」
 衝撃で落ちた紙を拾う。
“海賊は、仲間を見捨てないものだ”
「そうだったな」


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