「――ぅ」
「オーディ?」
 王の寝台の傍に椅子を寄せて、その額に浮かぶ汗をぬぐっていたワカナは小さな呻き声に王の名を呼んだ。すぐに反応するように開かれた眼は、薄暗い部屋の中、そこが自身の寝室であると気がついたようだった。――そして、数時間の空白にも。
「ワカナ……アリスは?」
「オーディ、アリスちゃんのこと呼ぶなんて珍しいわ」
「――そうだったか。とにかく、アリスに非はない」
「そう。でもオーディ……痕が残るかもしれないって」
「自業自得だな……」
 オーディルドは原因をよく理解している。怯えさせたのは自分であると。だからこそ、亜莉栖に非はないと。近づこうとして、踏みにじったのは自分であると。
「もし……アリスが帰りたいと言うなら帰れ。もう一度道を繋ごう」
「……オーディ? アリスちゃんと何があったの?」
「何もない。ただ、子どもの意思を尊重するだけだ」
「オーディ。話がわからないわ」
「俺は無条件でワカナ――お前に愛されるあの娘が憎い。それだけだ」
「オーディ」
「あの娘さえいなければ、お前を帰すなどありえなかった」
「でも、アリスちゃんがいなくても」
 否定の言葉を続けようとした若菜は、背の火傷の痛みを押し殺して起き上がったオーディルドに、あっという間に押し倒されていた。いつの間にか変わった視界に、若菜の目が瞬く。
「帰さない。――二度と――」
 愛しいと言うように、伸ばした手で髪をすき、唇をそっとこめかみに寄せて、オーディルドが甘く囁く。そして、
「だから帰れ。今、ここで約束」
 つと、若菜の指がオーディルドの唇に当てた。魔術師の盟約は、この世界では絶対的な力を持つと知っていたから。
「まだ、答えを出すのは早いわ」
「しかし」
「決めるのはアリスちゃんなのよ」
 そう言って若菜はわらった。それはすべてを包み込むような聖母の笑みで。答えは知っていると言うようだった。


「おやすみなさい」
「――アリス様」
「なに?」
 自室と与えられた部屋(寝台は扉もうひとつ先)の前で扉を閉じようとしてアーベルに声をかけられた。さっきの会話のあと沈黙していたからちょっとおどろく。
「……」
「あの……」
 ええと……?
「陛下は嫌いですか?」
「? 嫌われてるの間違いでしょう?」
「そうですか。失礼しました」
「? おやすみなさい」
 部屋の扉を閉じて、ひとりになってちょっとほっとする。ずるずると床に座り込んで、頭をひざに――
「アリス様」
 扉を叩かれてかなりびっくりした。
「寝台で寝て下さい」
「……お、おやすみなさい……」
 エスパーか!!!
 足早に寝室に向かった。ごそごそともぐりこんで、横になる。眠れない。気になって眠れない。――なにが?
「……そっか」
 あの金髪のこと。嫌いじゃないんだなって思い当たった。少なくてもママが、あんな風に穏やかに過ごしているのは金髪のおかげだ。やっぱり、パパが死んじゃってからはどこか、寂しそうだったから。
「大丈夫かな?」
 きっともう、目の前で苦しんでいるのを他人事だと放り投げられないほど、私はあの男を知っている。
 ――もう寝よう。


「――はぁ」
「あらなぁに? ため息?」
「気が重い」
「オーディ」
「まぁいい」
「……あなた、ケガしてなったかしら?」
 と、視界が変わってアッという間に押し倒されていた若菜が首を傾げている。
「こんなもの、すぐ直る――ぅッ」
 軽く考えて、おざなりに返事をしていたオーディルドの背に、若菜が爪を立てた。
「駄目よ。完璧に直して。でないとアリスちゃんが落ち込んじゃうわ」
「……」
「ね?」
 今度は先ほどとは違う笑みを向けられて、オーディルドは頷くしかなかった。


「ワカナ様。陛下は」
「気がついたみたい。本当、変わらないわ」
 それは、過去の一幕。
「どうぞ陛下を」
「アーベル。止めて。答えはずっと前に出ているの」
「……ワカナ様」
「アリスちゃんを送ってくれてありがとう」
「いえ」
「答えはずっと前に出ているけど、未来はまだ決まってないの」
 意味深なことを言って、この国で王妃と呼ばれる女性はほほ笑んだ。



「眠い」
 目が覚めて、がばりと起き上がった。朝だけど眠るまで時間があったからまだ眠い。――寝よう。ばたりと寝転がる。


「いつまで寝ている。もう昼だぞ」


 声に、おどろいて――

「………ぁ」
「なんだ、その呆けた顔は?」
 いつも通り金髪がそこに、いて。あの日、二度と会えなくなったパパの姿に重なっては恐怖を思い出した夜が明けて光が差し込むように、心は。
「うわーーーー!!!」
「!?」
 自分でもおどろくほど大きな声で、泣いた。
「おい!?」
 金髪の声をかき消して、寝間着の袖と手首で涙をぬぐって、止まることを知らない涙と鼻水を啜って、泣いた。


「アリスちゃん!?」
 目の前でおろおろとしていた金髪を押しのけてママが駆け寄ってきた。どこにいたのよ! 抱きしめられて、抱きついて、背中を撫でる手に安心して。そのまま泣いた。
「……パパみたいに、いなくなっちゃうかと思った」
 途中で呟いたら、ママの動きが一瞬止まった。
「亜莉栖ちゃん――大丈夫よ。怖いことは何もないわ」
「……本当?」
「ママはアリスちゃんには嘘つかないわ」
 背中を撫でるその手に安心して、しばらくして涙が止まった。
「顔洗う」
「そしたら夕食にしましょう」
「目赤いからひとりで食べる」
「ママはいいでしょう」
「ママはいいけど」
 あとはいらない。



 なんか我儘を言った自覚はあるのだが、おどろくことに食卓に着いたのは私とママだけだった。給仕もいない。しかも、テーブルも四人掛けという小ささ。
 すでに食事は全部並んでいて、湯気を立てている。――湯気って。電子レンジもないのにどーした。
「給仕もいらないから全部並べてって言ったの〜一度コース料理全部いっぺんに食べたかったの」
「そんなの金髪に言えば言いじゃん」
「それはそうだけど。まぁまぁ」
 何がまぁまぁだ。もう。あの金髪はママのためならどんなわがままでも聞いてやるって感じだけど、ママが言っているところは……見たことないだけか。
 もぐもぐ。――おいしい。
「おいしい」
「そうね。ママよりおいしいわ」
「ママ料理うまくないもん」
「智さんはいつも個性的って、言ってくれたわ」
「おいしい訳じゃないってことよ」
 会話だけ見れば、いつもの、いつも通りの、日常なのに。背景はファンタジー。料理も見慣れない。
「ママ、本当にあの金髪と再婚するの?」
「してほしくないの?」
「答えてよ。ママは再婚したいの? なんのために?」
「アリスちゃんのために」
「嘘吐き。いい加減に、私をダシにするのは止めてよ!」
「じゃぁ。アリスちゃんがいなければオーディと結婚できたかもしれないのに?」
「そこはママとパパの結果であって私は産まれさせられた側よ!」
 ばあんと、台を叩きつけたかったが、所狭しと皿が並んでいて断念した。
「ママはオーディルドを愛しているから。結婚したいの」
 言葉が具現化するならば、氷の刃に見えたのだろう。目の前に座る母親が急に、遠くに見えた。
「智さんも好きよ。でも、もういない人を愛し続けるのには疲れたの。だから、ママは今私を愛してくれる人に会えて幸せよ。アリスちゃんは?」
「わた、し?」
「アリスちゃんはどうしたいの? この国は嫌い? そんなに帰りたい? ママと一緒にこの国で暮らすのはそんなに嫌?」
「だって、ママ、――ママはいいじゃない! あんなにママを好きな人がいてくれて!」
「ええだからここに来たの。アリスちゃんはどうなの? そんなに向こうに会いたい人でもいる? この国は生きていくのにそんなに苦痛? 確かに電気とか、科学文明の発達には差があるけど。人間どこでも生きて行けるのよ」
「わたし、私――わからない」
「そうなの。それじゃぁあなたは未成年だから。ママと一緒にいるしかないわ。それとも向こうで、ひとりで暮らす?」
「そんなこと」
 考えたこともなかった。
「アリスちゃんに相手がいるなら、置いて来てもよかったのよ」
「ママ。ママには、私は必要ないの?」
「アリスちゃんは智さんとの間の大切な子よ。だから連れてきたの。でも、アリスちゃんが生きていくにはママが必要でも。ママはアリスちゃんがいなければ生きていけない訳じゃないのよ」
「わかんないよ」
「この国は嫌い?」
「……」
「嫌いじゃないでしょう。アリスちゃんはどうしたいの?」


2014.09.18
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