〜おうじょ様の秋の受難〜


「王女様〜? おうじょさまーー!」
 そう広くない城内を走り回る影がひとつ。回廊を進み、一度足を止める。
「はぁ、いったいどこに行ってしまわれたのかしら? お客様なのに――」
 だが、これも侍女の仕事だ。茉衣莉は助っ人を頼むべく再び走り出した。

「藺宇がいた?」
 執務室で、机に向かっていた王子は、入ってきた侍女に問いかけた。
「いいえ、いませんの」
「平和だな」
 王女様がいることが異常なことに分類されるらしい。
「おやつの時間になればでてくるだろう」
 いつものこといつものこと。今日は何かしら。昨日は干し柿だったから……しょっぱいのがいいわ。
「それが、来客なのです」
 ぁあ。
「そうだった――逃げのか?」
「……どうでしょう? 普段から逃走癖のある方ですし……」
 あーーめんどーーいわね。
「仕方ない、餌をまくか」

「きゃぁーーー!?」

 王子がため息をついたその時。迷子の悲鳴が城中に響き渡った。
「……平和だな」
 「王女様〜!」と走り去った茉衣莉。執務室に残されたのは王子と護衛。

 さて、時間を少し巻き戻しますと……
「ふんふ〜んふふふ〜ん」
 機嫌のよい王女様は、城の中を歩いていました。なんといっても今日の朝食にコーンスープ(とうもろこしはペースト状にしたものが保存されてます)が出たから。歩く足も半分スキップみたいなものです。
「ららら〜」
 歌いだしました。くるくる回りながら。
 王女様を見つけたものは、みんな回れ右してきた道を戻りました。王女様、前を見てません。
 前方注意と言う言葉は、頭の中から零れ落ちたままです。きっと、王女様の足跡が残るように後ろに転々と落ちていることでしょう。
 と、
「ぎゃぁ!?」
 案の定、王女様何かにぶつかりました。とがった壁の角というにはやわらかく、中央の膨れた円柱と言うにはさらさらとしています。
 いったいなんだろうと顔を上げた王女様。ここで時の流れが交わりました。
 そう、それは人間でした。王女様の記憶に新しく、ちょっと忘れがたい存在……王女様の中で記憶の箱の鍵が開く音がするまで、ざっと十三秒。
「きゃぁーーー!? えええエスティ先生!? ごめんなさいまだ宿題してないのーーだって来年の夏のことでしょう!? やめてーーお願いだから子守唄に円周率はやめてーー!?」
 混乱した王女様、ここでももちろん、瞳を潤ませて嘆くのは忘れません。
「王女様!?」
 そして現れる茉衣莉……彼女、今さっきまで執務室にいました。その足の速さについては、ここに記述するのはやめましょう。
「茉衣莉〜助けて〜数字の悪夢が〜」
「いい薬ですわ。申し訳ありませんディラス先生」
「へ?」
 聞きなれない言葉に、王女は首を傾げた。すでに、泣いた痕跡は消えている。
 にっこりとさわやかな、どこかの誰かを思い出させる笑顔で、男は優雅に腰を折った。
「はじめまして王女様、愚弟エスティの兄、ディラスと申します。愚弟には何を教わりましたか?」
 ぽかんと、王女様口を開けたままです。
「――双子?」
「ええ」
 脱兎のごとく、王女は逃げ出した。確かに、賢い選択だった。だって、だって、あのエスティの双子が! 性格がいいわけな――
「どこに行く?」
「助けてーー藺志ーー!」
 神出鬼没パートつー! 王子登場!
「物理の講義の時間だろう?」
「……物理?」
「はい王女様、私の専門は物理です」
 にっこりと微笑むその顔、数学の先生(エスティ)とかぶる。
 いーやーーだぁーーー! 王女様の悲鳴が響き渡った。

 王女の勉強部屋から、しくしくという泣き声と、恨み声が聞こえる。
「双子なんて、知らないもーん。だから授業なんて受けなくていいんだもん〜」
「その理論は、理解しかねますが」
「ぅわぁ〜ん。ばかぁー」
「王女様。私はあなたの物理の講義に来たのです」
「それで?」
 王女は、なんとなく次の言葉が読めていた。
「ですので、幼児化しても何も言いませんよ?」
「最悪じゃないのーー!」
 おんなじこと言うな馬鹿ーー!

「王子様の計らいで、この国の有力者に物理を教えることができるなど、至福の時ですね」
「どっかいっちゃえばいいのに」
「先日まで他国にいたのですが……王子のゴシップが流れまして、王子が乱心してしまいまして……これでは相手にならないと帰郷したのです」
「……乱心?」
 なんか、なんだろうこの背中を冷や汗が流れるような、笑い飛ばせるような……
「ぇえ、あれくらいで再起不能に陥るような若輩者に興味はありません」
「……」
 余計なことは言わない。興味を持たない。王女は心に誓った。
「さて王女様、物理と言うものはですね」
「なんで物理?」
「……確かに、確かに何かの事象を証明するのに数字と言うものは必要です。その点において、愚弟の選択は正しかったかもしれません」
 あれ?なんか、寒い。
「ですが、物理学において数学は必須条件です! 私は数学のみならず、それを発展させ学んでいるのです! 私は興味関心の幅を広げることができましたが! 愚弟は数学にとどまっ」
「でもほら、狭く深くって言うじゃない」
「……王女様? さいころの面積の求め方は知ってますか?」
「だーかーらー。正方形の面積を求めて六かければいんでしょう?」
「さいころの表面積は穴の半径を測って、穴を半球と仮定して表面積をだすと厳密になります」
「……へぇ……」
「あやつ! 物事を厳密に教えないなど! 手抜きにもほどがある!」
「どっちでもいいから〜」
「何をおっしゃいますか!? 現実に厳密に忠実に現実を表してこそ正確で詳細な出来事の把握ができるのです!! わが物理学は自然界の現象の法則を導き出す神業!!」
「ああそう」
「さらに申し上げますと、直線でできた平面の面積はすべて三角形で分割できるので、台形ならびに平行四辺形とかの面積の公式は覚える必要性ありません」
「そもそも台形の面積求めてなんだけどね」
「すばらしいや、われらを取り巻く、自然。そのしくみ、性質……まさにこの世の創造神の頭の中! さぁ王女様、美談はこれくらいにして、講義に入ります」
「美談!?」

「世の中には元素と言って、物理的または化学的な手段によってそれ自身より簡単で性質の異なる物質に分解できな……」
「プシュー……頭の中がショートしました」
「はぁ、やはり王女様には難しすぎますか」
「やはりってなによ」

「自然科学というものは、誰が読んでも同じ解釈がなされるんですよ」
「あんたの性格もきっとみんな同じ解釈をするわよ」
「王女様には負けますよ」

「最初の話を王女様のためだけにわかりやすく申し上げますと。世の中の物質は分子→化合物→原子→元素いうように簡単でそれ以上分解できない物質になるのですよ」
「どれも見えないじゃんかーー」
「目に見えるものもありますよ。化合物と言うものはですね」
「しおー」
「そうです、そのレベルでは賢いですね王女様、塩は「塩化ナトリウム」です。これはナトリウムが23gと塩素が35gグラムで質量比がNaClであらわされますね。……では王女様、今のようにほかの化合物を二百個上げてください」
「二百!?」

「世の中には数節頭辞というものがありまして……」
「へぇーー」
「1はMono(モノ)と言います」
「へーー」
「王女様、モノトーンやモノクロと言う言葉を使うでしょう?」
「カラーじゃなきゃやだ!!」
「2はDi(ジ)/Bi(ビ・バイ)と言います。Bicycle! ですね」
「この国の言葉じゃないー」
「3はTri(トリ)ですが、」
「ですが?」
「トリオ漫才は結成しなくてよさそうですね」
「なんのことよ?」
「王女様はそのままお一人でじゅーぶん笑えますから」
「トライアングルーー!!」
「5はPenta(ペンタ)です。ペンタゴンと言えば五角形ですよ。覚えましたか?」
「4は!?」

「さて基本はおいといて」
「基本が大事じゃなかったの?」
「一からしごき上げるのがお望みなのですか、わかりました」
「ぎゃーーー!?」
「王女様、その馬鹿に甲高い声はどうにかならないのですか?」
「どういう意味?」
「物体の出す音の高さはHz(ヘルツ)で表されますが、人の聞こえる音の範囲はおよそ20〜20000Hzです」
「それで?」
「悲鳴を上げるなら20001Hz以上にしていただかないと」
「聞こえないジャン!?」

「物体に力を加えることを作用と言いますが」
「よいしょっ! この椅子すべりいいの〜」
「それは摩擦も関係してます。話を戻しますが、加えた力と同じ大きさの逆向きの力、反作用を受けます。ですが……」
「ですが?」
「王女様には私の作用に対する反作用は求められませんね」
「フィードバック!?」
「違います」

「浮力と言うものがありまして」
「人間は水に浮くんだもん!」
「物体の浮き沈みは浮力と重力がどちら向きの等符号で現されるかによって決まります」
「そーなんだー」
「……はぁ……」
「なによ」
「王女様の脳は軽そうですね。水に浮くだけあって」
「今イラついた」

「左右から引かれた紐は、力の大きさが同じで、まったく反対方向にひっぱられていると動きません。力がつりあっているのです」
「動かない紐なんて意味ないもん!」
「王子様と王女様の力はつり合いが取れてませんね」
「……なんでよ」
「いえいえ、誰も王女様のお頭(つむ)が弱いなどとは言ってませんよ」
「言ってるし!!」

「ねぇ結婚してるの?」
「王女様、今はそんなことを話す時間ではありません」
「弟は結婚してるのに、乗り遅れたとか言わないよね?」
「……」
「でも、変人の奥さんだからまともな人じゃないの?」
「……義妹はアホ毛が数字をかたどっていればいいんだ!!!」
「え? そうじゃないの? あ、でも奥さんに逃げられたんだっけ?」
「王女様? いったいどこでそんな情報を……個人情報ですよ」
「ダダ漏れだもん」
「さすが藺志王子……仕事が抜かりなくていらっしゃる」
「……あれは自爆だったんだけど……」

「どうやらデスクワークに必須な集中力が乏しいようですね。わかりました」
「おしまい!?」
「今から実験を行いましょう」
「わ〜い楽しそう! 何〜?」
「とりあえずこの窓の先のテラスを乗り越えましょう」
「落ちるから!!?」
「なにを申されますか!? 身をもって支えがなくなると落下すると言う重力の働きを証明する立派な実験ですよ!?」
「人外技は藺志に頼め!!」
「王女様! そんなことで将来面積マスターではなく物理マスターになれると思っているのですか!!?」
「どっちもなりたいと言ってない!!」






友情出演→日吉 翠さん ナイスなコメントをくれたお客様一名

参考文献
【歌夜の中学の理科資料集】↓
東京書籍編集部(編著) 『ビジュアルワイド中学理科資料集』 1997 東京書籍印刷株式会社 丁子 惇
【歌夜が大学で受けた物理の講義ノート】

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