愛しい人


「おきて」


 そっと、手を伸ばす。かすかに、指が震える。
 そっとそっと伸ばした指で髪に触れる。最初は、静かにその髪をすく。そしてぐしゃぐしゃとかき乱す。
 どうせ、すぐにもとのように整えられるのだから。これくらい許してほしい。
 せめて、これくらい。
 髪をかき乱す手が止まる。
 震えは全身に回り、嗚咽を堪えようと片手は口に当てる。
「――っ」
 声を抑えられても、熱く溢れてきた涙が止められない。
 静かに、腰掛けた椅子の上。足の上に落ちる。

 誰だったのだろう。心が死んでしまえば、体も同じと言ったのは。
 心が、生きる気力を失えば、二度と目覚めないと言ったのは。

「助けて」

 一人では、生きていけない。あなたが、いたから生きてこれた。だから駄目なの。
 あなたが、いないと。

 かすれる声、漏れる嗚咽。――泣き声。
 聞かれてはいけない。
 それが合図となるから。心を切り裂く。
 だけど、少しだけ。
 ほんとうに少しだけ。

 ねぇ。我慢するから。待っているから。いくらでも。いつまでも。
 だから少しだけ、泣かせて。

 本当はいけないのに、監視の目は少しだけ甘くなっている。
 もし、ばれたら怒られるのに。
 その目が、ほんの少しだけ同情を帯びているのに気がついた。
 だから、少しだけ。

「――ひっ――っ」

 心はとても寂しいのに、溢れるものだけは熱い。
 生きて、いるのに。
 誰も死んでないから。
 生き延びろと、生きろと言ったのはあなたなのに。
 だから、生き続けられたのに。
 だから、生きたのに。

 あなたは、眠っている。

ッコココ!

「!」
 あわてたように三度扉が弾かれる。それは、緊急の事態の合図。――あの人が、くる。
 急いで涙をぬぐう。こすったから赤くなっているだろうか。

「ごきげんよう? ちっとも麗しくなんてないわ」

 静かに、目を伏せた。扇で隠された口元を見た後で。

「また、泣いているのね」

 ずかずかと気配が近づく。私はうつむいたまま、顔を上げない。――と、扇があごに当てられて、顔が上がる。
「――っ」
 不気味に笑う口元が目に入る。同じように笑う顔も。

「どうしたの? ――悲しむ権利を与えた覚えはないわ」
「ごめ――」

 ごめんなさいと謝るより先に、頬に衝撃を食らった。
 熱く、痛い。
 がだんと椅子から滑り落ちて、床に倒れこむ。

「忌々しい事」

 ぎりぎりと指が踏まれる。痛い。痛い!

「――ぁっ」
 泣き声のような悲鳴に、はっとしたように足がどく。

「忌々しい」
 呪うように言い捨てて、荒々しく部屋を出て行った。
 これでも、最初の頃のヒステリーよりましだった。
 髪を引っ張られて、数日はあざが消えないぐらい張り倒されるよりは。
 のろのろと寝台による。腕を上げて、すがるように起き上がる。
 握り締めたシーツにしわがよる。
 握り締めても、捕まえられなかったものがある。

 寝台の横に座り込んだまま、手を伸ばす。
 その手が、生気の失せた頬に触れる。
 冷たい手と頬があわさって、暖かくなるはずもない。

 騙されたのだ。
 そう思った時はもう、遅すぎて。

 はるか過去を振り返れば厳しくて、過去を振り返る暇もなくて、そして、今の少し前は幸せで。今は。
 未来は。

 未来を。

 望んだものは、大きすぎたのだろうか。
 願ったものは、大きすぎたのだろうか。

 いっそ、私は本当に死んでいればよかったのだろうか。
 そうすれば、共に。
 共に歩けたのだろうか。次の道を。
 死の次は無だと。言った人がいた。

 虚無の中に生きる私は、なんなの?

 乱した髪の中に、また手を差し入れる。すくには短いが、撫でるようにすいて、整えて、乱した。
 その繰り返し。
 いっそ、もう、そんな思いがよぎる事が大きくなる。

 そっと、状態を起こした。
 重なるように近づいて、その頬に唇を寄せた。

 ――愛しい人。

 起きて。

 ねぇ。







「兄さん」





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