問と、答えと


「どうして、人を殺しちゃいけないの?」


 答えられなかった。
 そんなことは、どこかの小説か、哲学や宗教に関係すれば、いくらでも答えは載っている。

 だけど無邪気に――母を殺した少年にそんなことを問われると思わなかった。
 少年は、その母親に殺されそうになっていたのだから。

 見てみぬふりをしてきた。
 自分は無力だと、何もできないことをごまかしてきた。

 その結果が、これか。

 本当は、目があったことも気がつかないふりをしては、いけなかったんだ。
 後悔なら、いくらでもできる。

 だけど、今、何ができる?

 これまで何もしてこなかった私が、今、何か出来るはずもなかった。

「あははっお姉ちゃん。水が出せるんだね」
 泣く事を忘れた、涙を流しすぎた少年が言う。

 悲しかった。

 すべてが。

 少年は武器を投げ出して、歌うように軽やかに歩き出す。
 一瞬、自分の視線がするどく、凶器を探した。

「お姉ちゃん。僕を殺すの?」
 少年は振り返って笑った。
「……っ!」
 笑顔に、答えられない。

「ねぇ。お姉ちゃん」
「さわらないで!!」
「……?」
「!」

 赤い手が、伸ばされる。恐ろしくて拒絶した。

 そして、少年と私の間に、深い深い溝ができる。
 本当は、拒絶してはいけなかったんだ。
 愛情を知らない少年を、抱きしめてあげられれば、よかったのに。

 いくど、振り返っても何も変わらない。
 不思議そうに首をかしげる彼の視線が、曇った影が、痛々しい。

「……ぁ」
「お姉ちゃん」
 人形のように笑う、少年の顔を見ることができない。

 私は、なんて卑怯なのだろうか。

 弟は、なんど、死にかけたのだろうか。

 母に痛めつけられる姿を見て、どこか心の中で、自分ではない事に安堵したではないか。
 父親の違う弟など、家族として認めなかったではないか。
 一人目の夫と死別し、二人目の夫に逃げられた母の荒れようは凄まじかった。

 荒れ狂い暴力を振るわれるのは、いつも弟。

 そのたび、そのたび……私は罪悪感と、優越感に浸っていたではないか。

 そして、その手を振り払った。
 その手が赤く染まるまで――存在を無視していたのは私なのに。

 変わらない弟の笑顔。育ちの遅い体。同い年の子供より、明らかに小さい。

「まだ水が流れている。変なお姉ちゃん」
 少年は、きゃははと高い声で笑いながら私の周りを回る。

 もういっそ、一思いに死んでしまおうか、二人で。
 きっと誰も、悲しみもしない。哀れもしない。
 母の死は喜ばれるだろう。私と弟の死も。親戚中で。

 母は名家の娘で、結婚してもその恩恵にあずかりたいらしい。
 自分が、劣るのを嫌った。なんにでも、負けるのを嫌った。
 しかし現実は、家を出た母を敬うものはいなかった。
 他人を嫉妬し、怨み嫉み憎み――満たされない怒りが弟に向かった。
 二人目の父は、財産を持って逃げたから。

 周囲を囲む人々の哀れむような視線に耐え切れなかったのだ、母は。

 一人目の父は、母に殺された。


 祖父母にも、父方の身内にも、母の存在は迷惑なのだ。

 ――刺客を、送り込むほどに。



がしゃーん!
 やってきた黒尽くめの男達は、何に驚いたのだろうか。
 すでに死んでいる標的の女と、うつむく娘、妙に明るい少年。

 だめ、殺しては駄目。

 しかし淡々と、剣をぬく男。その切っ先が向かったのは――

ザンッ
 弟を、抱きしめた。
 体全体で包み込むように、守るように。その剣が、突き刺さる事のないように。
 きつくきつく、抱きしめた。

 とっさのことで、本当に何も考えていなかった。
 自分の腕の中に抱きしめた小さな存在。
 弟は、こんなに小さかったのだろうか。あれだけの母の仕打ちを受けていた弟は、こんなにも細く、華奢だったのだろうか。

 いつから、弟の姿を見ていないのだろうか。

 あれは母に殴られる少年で、母のうっぷんを晴らすために呼ばれる“少年”だと、思い込んだ。

 一撃が、背中から胸まで届くかと言うほどの致命傷。しかしそれから、動く気配がない。男は、何を思っているのだろうか。
 この娘は母を殺して、息子を救おうとしているとでも、思ったのだろうか。


 すでに母親が死んでいることには、驚いたが、好都合だと思いなおした。
 どうせ殺すのだ、死んでいるなら話は早い。
 予定では、姉は殺すなと言われていた。だが――
 娘は自分の血を使って、少年にも傷がついたと見せかけている。
 しかし元から、少年は赤かった。その血は、自分の血ではないだろう。

 あれでは、もう姉は助かるまい。
 うつむき、呆然としているのかと思えば、たいしたものだ。
 父親の違う弟を、そこまでして守るとは、な。


 これで、今までの分が帳消しになるなんて思わない。だけど、今だけは――
 抱きしめると同時に、後ろから首筋を撃って気絶させた。流れる血が、シェルまでも刺したと、思ってほしい。

 口から、ごぷりと血が溢れてくる。
 もう、死ぬのか。


 この家を去りゆく足あとが、最後まで聞こえない。

 報酬が減っても、いいと思えた。どちらにしても、姉に傷をつけてしまったのだから。



 暖かかった。とてもとても暖かくて。こんな温もり、初めてだった。
 この温もりを手放したくない。実は心のどこかで、この温もりを切望していて。
 必死にしがみ付いた。
 まるで何かに、守られるように眠る――

「る……シェル」
 呼び声が、心地よい。
「――お姉、ちゃん?」
 目を開けて、微笑む姉の顔を見つめた。
「大好き、よ」
 私、笑えたの。シェルに微笑んだのがわかった。

 姉の体温と、微笑が、とても暖かい。
 言葉が染み込んでいく。
 まるで何かが、解けていくようだった。


 だけど、
「お姉ちゃん?」
 少しずつ、冷えていく。
 覆いかぶさる姉の体から這い出せば、ぐしゃりと、姉の体は崩れ落ちた。
 強い力で、自分を抱きしめてくれていたのに……今では事切れたように動かない。
 実際に、死んでいる。

「お姉ちゃん!?」

 少年は、死体を抱いた。それはも暖かくもない。何も言わない。
 今では、自分が殺した母と同じ、物言わぬ肉の塊。

 また一人、人が死んだ。――殺された。


 溢れる水は、涙という名前だと、思い出した。
 姉の流していた涙の意味はわからない。ただそれが、とても悲しくて流れていたのだと、わかった。


 少年はいつまでも、姉の死体を抱いていた。その手が血で赤く染まっても、その体が氷よりも冷たくなっても。

『どうして、人を殺しちゃいけないの?』

 彼女は、少年の問に答えることができなかった。けれど姉の死は、弟に答えを教えてくれた。




Free Will
2007.08.09