文字色


「せめて花のように」


 その日は、完璧だった。
 だけど、気が付くべきだった。いまだかつてないほど完璧であることに、完璧であることなど、存在しないことに。



 こつこつと、小さな足音が廊下に響く。くるぶしまで覆うほど長いスカート。色は藍色で、首から足先まで覆うつもりのワンピース。襟元、袖口、裾、腰元にはレースが除いている。控えめで、目立たない。屋敷仕えの女らしい服装。
 この服をはじめて着たのは、もう三年も前になるのか。ふと口元が上がる。それも、今日で最後の終止符を打つのだ。
 自身の手に持つトレイにはコップと水差し。柔らかい焼き菓子。主の好む甘口の冷たいハーブティー。水差しの中に入る花々。苦労した物だ、食に対して好き嫌いの多すぎる主のために。
 氷が、水差しごと中身を冷やす。氷など、市民は手に入らない。だがそれが簡単に手に入る主。
 ――憎んだことも、好いたこともない。ただ、それが役目。
 これまでを、最後に。
 口元が笑う。明日の夜にはもう、違う自分となって往来を歩けると思うと嬉しくて仕方ない。
 よく貫き通した物だ、今の私を。下準備に丸二年、準備に一年。
 月のない夜。月は嫌いだった。すべてを見透かすようなあの光。薄暗い夜を照らす光。太陽の光も嫌いだ。
 私を照らす光など、いらない。光に憧れるなど、どうかしている。それが、かつての自分。もう、浮き上がれない。
 自嘲気味に笑って、歩みを進める。次の次の角を曲がって、真っ直ぐ。もう迷うこともない。
こつこつ
 履きなれた靴。
こつこつ
 氷が、硝子に当たって音を立てる。この音が好きだ。
こつこつ
 誰もいない廊下、薄暗い灯り。まだ起きている主。夜食を持っていくのはいつも私。これも、日課のような物だ。
 主が私のお茶を所望するから、私の役目。それも、計算のうち。そうなるように仕向けた。
 奥方の亡くなった主に取り入るのも、簡単だった。だけど主は、別の女になびくような男ではなかった。実は、そこはほめてもいいと思っている。正直そこは気にいっている。
 だけど、その主を――殺すのは私。協会が、決めたことだから。私に与えられた任務だから。
 主は、正直な人間だった。率直で、真っ直ぐで、光のような人。だけど、そんな彼を、快く思ってない人間がいるのも事実だから。もし、立場が逆でも、同じこと。主はそんな事しないと思うけど。
 もし、彼がもっと聡くて、もっとお金があれば――ただの想像だわ。これは。
 ちらりと、水差しに目を向ける。色とりどりの花を入れたハーブティー。今日は、特別。少しずつ配合を変えてきている。混ぜるのは、毒。彼の身体を作り変えるの。
 今日の葉が、彼の身体に致命的な打撃を与える。
 そして彼は死ぬ。
 そして私は、もとに、戻る。
 それが、私のシナリオ。いつものことよ。
 再び視線を上げて、おかしくない程度に歩く。誰もいないのだから、誰に遠慮することもないのに。屋敷仕えの振る舞い。
 目を瞑っていても、この屋敷の中どこでも行ける。
 角を曲がった、次の角は――
「どこへ行くんだ? こんな夜更けに」
 身体が、硬直した。
 後ろから抱きすくめられて、動きを封じられる。驚いてトレイを取り落とさなかったのは、屋敷仕えの心がなせる業か、それとも。
 気配は、感じなかった。いくら前線を今は走ってないとはいえ、勘が鈍ったとは思えない。
「おいしそうだね。それ。誰が、飲むの?」
 おそらく私より背の高い男は、私の肩に後ろからあごが乗せて水差しの蓋を開けて、しめた。
 トレイを持つ腕の下、撫で回すように回された手が、動く。
 私は、驚いて声もでない少女の真似ができていただろうか。手が震える。驚きではなくて、気配を感じなかった自分に、こうも簡単に捕らえられた自分の、力のなさに。
 今更、逃げられない。背後の男のほうが腕も、力も、私を上回っている。
 落ち着いて、大丈夫、だって私のことを知る物はいないのだから。
「……ぁの」
「なぁに?」
 かすれた声を出した私に、面白おかしく弾むような声で答える男。
 こういうとき、普通、女はどうするものだろうか。もがいて暴れるにはタイミングを外しているし。叫ぶのも……今頃? どうしよう、口を封じれそうもないし。
「ずいぶん、冷静だね。それとも、声も出ない?」
 どこか、馬鹿にするような響きだった。本当に、楽しまれている。
「わたし、を、殺しに?」
 声が、震えた。
「君を――殺す? そんな面白そうなことは、最後の手段にとっておくよ。楽しむ方法は、他にあるから」
 どういう、意味かしら、ね。
「……ぇ?」
 意味がわからないから、問い返す。それだけ。動けない、離れない。早まる心臓の音が、伝わっているのかもしれない。
 身体を這い回っていた手が、ここはあきたと言うように場所を変えるために動き出す。
「止めてください!」
 声をあげて身体を捻れば、あっさりと男は手を離した。一歩、二歩、離れる。
「そんなに、大事か?」
 ――それが。
「っ!?」
 それが手に持つトレイ……お茶だと指摘されていることに気が付いた時には、遅い。
「知っているよ」
 耳の真横の髪が一房つかまれて唇が寄せられる。耳に吹きかかってきた生ぬるい風を感じた。
 顔に出すことなんて、なかった。感情をコントロールしろと言われてやってきたではないか。なのに今の自分は絶望的な顔をして耳に手を当てているのだろう。
 いまだ、トレイは片腕で支えたまま。
 何を、知っているのだろう? 彼は、何を知っていると?
 問い返すのが得策ではないと、心が悲鳴を上げた。本能が言う言葉は一つ、“逃げろ”と。
 身を翻して走る、つもりだった。その腕をとられて、振り替えさせられる。そして、傾いたトレイから、すべてが落ちた。
ガシャーン!!
 目を閉じてしまった。剣を向けられても瞳を閉ざすなと教えられてきたのに、この悲劇的な状況から目を離すように。
 硝子の割れる音。そして、沈黙。
 恐る恐る、開けたくもなかったが目を開けた。すると――
「っ」
 言葉を飲み込んでしまった。目の前には男の顔が。はじめてみる顔だった。いや、違う。こんなに近くで見るのははじめてだった。彼は、主の知人ではないか。
「……ぁあ、割れてしまったな」
 彼は、こともなげに言った。その彼の視線を追うように床に目をやって、驚きに目を見開いた。
 床には、砕け散って粉々になった硝子、逆さまになったトレイ。だけど、水差しは、彼の手の中にあった。蓋は閉じられたまま、まるでそこが定位置だとでも言うように。
「……なん、で」
 カタカタと、震えている自覚は、もうなかった。ただ、この場から立ち去りたい。
「大切な、ものだろう?」
 静かに微笑んだ彼の顔。急に、寒気に襲われた。それを知ってか知らずか、彼は私の手を取って手に水差しを乗せる。
 私の手に水差しが移ったのを確認して、彼が手を離す。これは、こんなに、重かっただろうか。
「行こうか」
 恋人を誘うような、響きだった。だけど私には、こう聞こえた。つまり、一時死ぬことを免れた囚人が、死に場所に案内される、そんな瞬間。



 今度は、二人分の足音が響く。角を曲がった所に、二人目の男が現れた。私は驚いて、声をあげるところだった。二人目の彼もまた、気配を感じなかったから。
 全身黒尽くめで、目元も覆われている。表情もない。現れた男は私の前を歩く男に恭しく頭を下げて、新しいトレイとコップを手渡すと言うより捧げると言った感じで渡した。
 そして、男はそれを私につきつけた。
 とっさのことで、呆然と受け取ってしまう。それから、しばらく考え込んでしまう。考えることを頭が放棄していたので、何も考えられなかったが。
「必要な物だろう」
 心底呆れたような声がかかって、はっとする。まるで金縛りが解けたかのようだ。
 あわてて、トレイに水差しを置いて持ち直す。最初歩いていた状態だ。男が歩き出して、あわててついて行く。
 唯一、何が違うかといえば、コップの数が一から三に変わっている。この意味がなんであるか、もう考える必要はなかった。



「セリダン、入るぞ」
 男は、主の部屋にノックもせずに押し入った。
「カリズ? どうしたんだ、こんな夜更けに」
 主は、入ってきた人物に驚いていた。そして、その後ろから入ってきた私を見た。
「アジュ、悪いね。お茶の準備をいいかい?」
「はい」
 それは、いつもの主のための夜食とは違う。客人と共にお茶をするための言葉だ。そういえば、焼き菓子がない。あの時、落としてそのままだ。
「それで、僕の家の召使と一緒に入ってきたのは意味があるのかい?」
「さぁな」
 これは、二人の会話だ。これまでの会話があるからこそ、成り立つ会話。つまり、私には意味がわからない。
 だけど、口を挟むわけには行かない。三つのコップにハーブティーを注ぎ、ひとつは執務机に座ったままの主の前に、ひとつはあの男の前に。後ひとつは、あまり。
「しかしまぁ。こんな夜更けに突然だね」
「そうだな」
 男は音を立てて長椅子に腰掛けた。主は、入ってきた男の用件を待っているのか動かない。
 そう、なかなか、お茶を手に取らない。一口、もう一口でいい。早く、早く!
 心臓が爆発しそうだった。主がお茶を飲むまでの時間が、こんなに残酷なほど長いなんて誰も教えてくれなかった。早く、一口でいい。そうすれば、これまでが実る。
「なにか、あったのかい?」
「さて、ね。……それなら、これからわかるさ」
 穏やかな二人の会話に剣を突きつけたくなる。沸き立つ焦りを隠すのに必死だった。
 彼が一口飲みさえすれば、私の役目も、終わる。ただ静かに、食い入るように、だけどそこにいるだけで存在しないかのようにただ静かに壁に佇んだ。
「そうかい。そうだ、お茶をどうぞ……と言っても君は飲みたい時に飲むだろうね」
 主の一言に、心が躍った。
「ああ」
 早く、私をここから出して!
 主の手が、コップにかかり机から浮く。どれほど、待ち望んだことか。そのコップが、いや、中身が彼の喉を潤して通り過ぎることを。
 ゆっくりとコップが彼の口元に向かう。さぁ、一口でいいから――
「そういえば、お前」
 ぴたりと、主の行動が止まった。男の言葉に、怪訝そうに視線を向ける。もう、私の心は一瞬で憎しみに変わった。なんで、なんで邪魔を!!
 必死で、叫びだしそうな声を、焼け付くような喉を押さえた。かみ締めていた唇――血の味がした。
「なんだい?」
 主は、すっかり飲む気をなくしたようでコップを下げて両手で持っている。
 それをただただ残念で、ただただ憎らしくて見つめる。
「お前、めまいがすると言っていなかったか?」
 そして、その男の声にぎくりと身を震わせた。もう、落ち着き払っていることなど、できはしなかった。一度、崩れた姿勢。建て直すのがこんなにも、困難であったことなどはじめてだ。
「そう、だね。でもそれは少し前の話だろう?」
「心配するに越したことはない」
「それはそうだろうけど、それが?」
 そして男は、私を奈落の底に突き落とした。
「メシェルの葉は、人によってはめまいを起こす原因を引き起こすからやめたほうがいい。それをこのメイドが知らないのなら、教えてやれ」
 男は、一息に言った。
 私は、息ができなかった。
 主も、しばらく言葉を失っていた。そして静かに水差しの中身を追って、次にその目を私にむけて言う。
 水差しの中には、確かに、メシェルの葉が入っている。
「本当かい? アジュ?」
「……ぇ?」
 私は、呆けたように言葉を返した。言葉をかけられたことに気が付くまで、時間がかかった。
「一般には知られていない。だから、このメイドはお前がめまいを起こしたことと、この葉の効果を知っているのかと聞いている」
「本当に、君は物知りだね」
「調べ上げただけだ。なんとなくだるいと言い出したのはお前だ」
「そうだね」
 主は、コップを机の上に置いた。それを私は、絶望的な目で見つめていた。



 どうやって帰ってきたのかわからない。ただ気が付いたら料理場に入って座り込んでいた。持ち帰ったトレイには、水差しと、中身を飲まれることのなかったコップが三つ乗っていて台の上にある。
 おそらく、今日はもう下がって休むように言われたのだ。あのやさしい主のことだ。今日のことは忘れなさいとでも、知らなかったのだからしかたないねとでも言ったことだろう。
 どうしよう。今日ですべてが終わるはずだった。今日で、すべての束縛から逃れるはずだった。
 だけど、すべては水の泡。あるとも、ないとも言えぬ存在。
 今日で、私は――
「失敗したな」
 からかうような声に、はじかれたように振り替える。そこにいた男は、すべてを見透かしてなお、私を馬鹿にするかの用に笑っていた。
「お前、は」
「ずいぶん口の悪いメイドだな。主の友人に向かって」
 はっとして、頭を下げた。
「……ご無礼を」
 顔も、上げずに言う。
「お許し頂けるでしょうか」
「そうだな」
 まるで気にした様子もなく調理場に入ってくる男。
「それで、次はどうする気だ?」
 何を聞いてくるのだろうか。私に、次はない。
 これで、最後だ。
「なんのことでしょう」
「気が付かない、とでも?」
 ひたとその瞳が私を見つめた。
「いったい、何――」
 言葉を言い切る前に、胸倉をつかまれて壁に叩きつけられた。
「ぁ……っ……」
 突然の衝撃にうめいた。背中が焼け付くように痛い。
 足は、地につくか付かないかといった所にあって、不安定に揺れる。息が苦しい。
「もう一度だけ言う、何をした」
「知らなっ……はぐ!?」
 再び叩きつけられて、体の中がかき回されたようだ。胃の中からこみ上げてくる感覚。目が回る。苦しい、くるしいっ! 助けて!!
「……あっ……やぅっ!?」
 視界の端で、私を苦しめる手がひとつになったと思う暇があったのかはわからない。だけど、片手が私の身体を這い回り始めたのは事実だった。
 もがけば、もがくだけ苦しい。まるで水の底に向かのごとく意識は遠のく。
 その瞬間、喉が開けた。突然舞い込んできた息に飲まれる暇もなく、荒々しく唇を奪われていた。
 それが永遠に続くかと思われたが、案外あっさりと離れた。
「血の味がするな」
 何も言えなかった。再び、同じようで違うように唇が奪われた。
 そう、覚えているのはそこまで。

 次に目が覚めた時、私は絶望の淵にいるのだから。


〜Fin〜
 



Free Will
2008.06.16