空に一番近い場所

 水の流れ、川の音
 波のささやき、海の声
 風の流れ、通り過ぎて
 空は、青を失った


「最悪」
 山の天気は変わりやすいというが、ここまでとは思わなかった。しかも、ここには雨宿りができそうな木もなければ、岩もない。
 ただ、頂上に向かって荒野が広がっているだけ。
 足下を泥水が流れていく。

 光と轟音、雷の喜び
 流れ流れ、雲が踊る
 落ちゆく声、下は見えない

 ただの気まぐれとは言いがたいが、山に登った。
 どこか、終着点を探していた。
 もう残す物はなかったから、帰る場所を用意しなかった。

 雲の切れ間、光
 止み行く風、穏やか
 降りしきる雨、細く、消える

「こんな所に」
 だれが、作ったのだろうか。だれが、想像したであろうか。
 止んだ雨、輝いた太陽。ずぶ濡れになったあとは、焼け付くように眩い。
 立ち止まって、雨水を汲んだ。すんだ水は冷たかった。
 誰もいないことを確認して、脱いだ服を乾かした。上備品も一緒に。
 簡単な食事を済ませて、再び山を登る。
 雨の流れを残した地が、乾き始める。
 ふと思う、この場所に初めて足あとをつけたのは私。次の雨が降るまでの痕跡。
 だれか、覚えているかしら。

「こんな、所に」
 二度目の呟きは、本当の呟きだった。

 “ファラ朝・王都ファーラーン”またの名を“忘れられた空の町”、“世界中で一番、空に近い場所”
 そして、今はもう誰もいない。
 かつて栄華を極めた一族のなごりもない。
 消え去った人間。枯れた花。崩れた建築物。
 残らなかった。彼らの笑い声は。
 空を上り詰めることはできなかった。いくら、空に近い場所に住もうと。
 大地を離れ、生きることはできないから。
 彼らは、何を思い生きていたのだろう。下では、ここには死がないと言った。人が人を殺すことはなく、人々は富に囲まれ、生涯を終えたという。
 この空の向こう。何を見たのだろう。
 ここに住んだ人は、なぜ消えたのだろう。
 一説によると、彼らは地に降りてきたと言う。この楽園を捨てて、空からも離れて。
 だれもが疑わなかった。空に近づけば幸せになれると。
 そして誰しもが憧れた、空に最も近い一族のことを。

 空からの恩寵は高く
 花は舞う 鳥が落ちる
 自分達より高い物はなく
 すべて、遥か下方

 彼らは何を思い、何を考えたのだろ。この空の上にそびえる石の宮殿は、言葉を解さない。
 あの鐘の塔は、いつ、その音を響かせたのだろうか。
 この町並み、笑い声で埋まったのはいつ。
 そこは、楽園。

 だけど――

 じゃりりと、小さい石の混じった道を進む。所々崩れ落ちた石段、壁。手を付けば脆く、崩れる。その手に白い粉を残して。
 それが、最後の力。
 王族も、民も、どこへ行ったのだろう。
 さしあたって、死体は見えないから。
 城を中心にそびえる町。水を引いたと考えられる溝。
 光を反射する窓の硝子。壁から扉にいたるまで石で、木々は使われていない。あたりいったいを見渡しても、木々も、花々もない。
 ここは花壇だったのかもしれない。一箇所を見つめて思う。芝も、草も生い茂らない。あるのは、白い、白い石と石。
 誰もいない。
 風が、泣いている。――忘れないよ、と。

 進み続けて、広場についた。そこで、目を疑った。
 一段高くなった壇上。聳え立つ石の壁。
 そこに磔にされた、もの。人であったもの。長い年月がそうするのか、吹き付ける雨と風がそうするのか、肉はほとんど落ち、くぼんでいる。細い骨が見え隠れして、首は傾いている。髪は、長く、細身の体。女性だ。
ヒュ―――
 一段と、強い風。霧が運ばれてくる。視界を白く多い尽くして、何も見えない。
ガシャン
 その身が、磔の器具から落ちた。原型を留めてもいない。肉ですらない、塊。
 唯一の、時間。彼女の時間は、今までここに、あったのだ。そして、絶えた。
「………」
 ここの死者の弔い方はわからないが、来ていたマントをかぶせて簡単に祈った。――神に?
 そこまで考えて苦笑する。神に祈るのはやめて、安らかに、本当に眠れと祈った。
 地に返すのが一番いいのかもしれないが、あいにくとここの土は固すぎる。花を添えようにも、花は咲いていない。
 ないのだからしかたない。
 マントが簡単に飛ばされないように古い金具で重石をして、その場を一礼して離れた。
 壇上を下りて、一歩、二歩。霧のせいで、前が見えない。

 ――ありがとう

「え?」
 呼ばれた、気がする。
サァ―――
 吹きつける風が、マントをはためかした。霧を、運んでいく。
「っ!?」
 開けた視界は、下方までよく見えた。そこから先は何もない。陥落したらしく、そこから先がなくなっている。後一歩踏み出せば、落ちていた。
 あごの下を冷や汗が流れる。こんな所を落ちたら、ひとたまりもない。
 まるで奈落。
 あの霧の中、あのまま進んだら――

 ここへ来て、帰らない人間の仲間入り。

 そこまで考えて、恐ろしさに、おかしくなって笑って、振り返る。
 もう一度マントの下に頭を下げて、もと来た道を戻った。これ以上は進めない。

 あれはなんだったんだろうか、死者を磔にするなら、趣味が悪すぎる。逆に生者を磔にしたなら――
 目の浮かぶ、ひとつの光景。彼女の細い細い指にかろうじてかかっていた指輪の紋章。
 あれは――

 崩れている城壁を越えて、城の中に足を踏み入れた。だけど土足で踏み込むのは気が引けて、正面口を探した。
 大きな扉は、斜めに傾いていた。隙間からなら、人一人通れそうだ。靴の砂を払って、そっと足を踏み入れる
「しつれいしまーす」
 声が返ってきたら、どうしようか。
 身構えたが、何も起こらない。
 入り口を入ると、正面先に玉座があった。階段の上の石作りの玉座は、いまだ、顕在だった。ここで謁見が?
 足下が崩れないことを確認して、玉座の前まで進む。そして、一歩一歩階段を上がる。玉座の目の前まで来て、一度膝を折って頭を下げた。
 考える。ここに君臨した王は、何を見ていたのだろう。
 椅子に座るのははばかられたので、その横にしゃがみ込む。はっと、息を飲んだ。
 入り口の上に作られた硝子の窓。その向こうに、廃墟の町並みが見えた。

 一番近くに 空にも 世界にも
 一番遠くに 人と 喜び
 一番近くに 虚無と 悲しみ
 遠ざかった 心

 彼らは、彼女らは、本当に手に入れたかった物を手に入れたのだろうか。

 しずかに一礼して城を出た。その先まで、踏み込むのは無粋だと思ったから。
 ここには、もう、そのなごりもないから
 はがれた壁、割れた花瓶。引き裂かれた布は紙のようで、硝子は落ちた。剣も銅もさびて、同じ物。金と、銀と、宝石は奪われた。
 人々は、いない。城は崩れ去った。

 人々は、どこにいったのだろうか。いや、そこにいるのだろうか。

 もしかしたら、まだ、ここに。
 もしかしたら、もう、すでに。
 もしかしたら、大地と、共に。
 もしかしたら、生きて――

 そんな、希望を持った。
 もう、笑うしかない。



 山を下っていく姿、足からまず見えなくなり、胴体、頭と続く。背後に残された遺跡。吹き残る風。
 彼女の本当の目的は、果たされないまま。


 空に近い場所で、彼女は、    を、探していた。














Free Will