それは、ただの通過点 3  

 鈍く痛む足を引きずって、山の中腹に湧き出た温泉までやってきた。立ち上る白い煙、独特のにおい。
 ふと、久しぶりに帰ってきたのだと自覚する。そして首をふる。
 信じられない。
 振り払うように首を振り、足を進める。
 傷口に、湯がしみた。
「痛い」
 歩くたびに鈍く痛む。治るのだろうか。そんな風に自問する。
 ぱしゃりと、お湯を飛ばす。そして止まる。聞こえてくる音も、ない――




「まぁいいです」
 絶句したシスルに用はないと、パキラートは温泉の場所を案内して部屋に戻ってしまった。
 することもなく言われたままに温泉に足を向けてみた。あのまま、部屋に閉じこもっていたらどうにかなってしまいそうだ。
 こんなにも後悔が役に立たないものだと、はじめて知った。
 いや、初めてではないかもしれない。だが、今思い出しても同じだ。


 遠めにもわかる湯煙が立ち上る。掻き消えて夜空に消えていく。
 ついてくる兵の数を減らし、交代で湯に入るようにと命を下す。そんな事は自分がしますと言ったレグホーンも、何をすればいいのか困惑気味だった。
 あの時、あの場所で、あの矢が突き刺さった――その場所。
 まさか、どうして。
 探していた娘に、敵意を向けたのだろう。



 ぶくぶくと沈む。意識も沈む。浸かりすぎでのぼせそうとぼんやり考える。
 だけど、いられない。うっかり会ってしまったらと思うと動けない。
 ざぁっと、強い風が拭いた。髪をまとめていたタオルが飛ばされて、あわてて視線を向けた――先。
 いた。

 一瞬何が起こったのかわからず、それからはっとしてバシャッとお湯の中に沈んだ。
 相手も気がついたのか、あわててこちらに背を向ける。――全員。
(最悪)
 なぜ、ここに……そうか。
 お風呂はここにしかないのだ。たぶん、湯治に行けと言ったパキラートもまた、この王が自分の屋敷にいることも耐え切れなかったのだろう。
(だからって……)
 頭をかかる。あのバカ師匠といらだつ前に、とにかく服を着ようと足を進める。
 お湯の抵抗もあってか、進みが鈍い。
ズキ
「――っ」
 バシャッと、ひざをつく。
 それでもどうにかこうにか岸に上がって、放り投げてあった服を着る。
 羽織って前で止めれば、終わり。それでも、人前には出られる程度だ。
「失礼します」
 さっさと通り抜けようとして、びくりと足を止めた。
 そこにいた、顔。
 よく覚えている。
「……ぁ……」
 少なからずあった落ちていく恐怖感、圧倒的な力の差、まっすぐに向けられた、あの、目。
 一歩後ずさって、何かにぶつかった。
 振り返って悲鳴を飲み込む。
(逃げて! 動いて!)
 必死に足を動かした。走りたい気持ちが踏み切った足に裏切られる。
 動かない。
 必死に、必死に歩いた。痛くて、痛くて痛い。
 姿が見えなくなるまで、必死で。


「は……はっ……はっ」
 どれだけ必死に足を動かしても、動ける距離なんてたかが知れていた。
 まだ、半分もいかないだろう。動けない体がどれだけ役に立たないか思い知らされて苦しい。
 背を木に預けて、座り込む。
 痛む足を押さえて、涙が浮かんできた。
 考えたくないのに、浮かんできてしまう。すべて捨ててしまいたいのに、許されない。
 シアンはどうしたらいいのかわからないというように唇を噛んで耐えていた。
「このバカ弟子」
 頭の上から降ってきた心底呆れたような声に震え、ゆっくりと顔を上げる。
 そこには、呆れていて、それでいて何か謝罪をしたように、すまなそうにシアンを見下ろすパキラートがいた。
「ししょ……」
「まぁ、迂闊だったね」
 すまないと、小声で聞こえた。
 腕を伸ばすのを躊躇ったシアンに、しょうがない弟子だねと。パキラートが動く。
 強い力で抱き上げられて、足が宙に浮く。
「ししょう?」
「まったく、あきない弟子だね」
「ししょう」
「どうしたんだい? シアン」
 いつもと変わらない声、いつもと変わらない言葉。
「……ふ」
 必死で握り締めた、小さい手。
 声が、抑えられなかった。
 苦しいのか、悲しいのか、もう何がなんだかわからない。ただこの心を占める何かが、シアンを追い詰めるように痛い。
 すがり付いて泣いていた。どうしたらいいのかわからずに泣いている。悲しいと泣いている。
 パキラートはシアンを抱き上げたまま静かに屋敷に向かった。それは子供をあやすような親の姿で、腕の中のシアンは泣き続けた。


 遠ざかる泣き声を、シスルは木の姿に自分を重ねて聞いていた。動けなかった。
 悲痛な声に、身を固めて、彼が握り締めた拳が震えていた。




 はっと目が覚めて飛び起きる。鈍い足の痛みに涙を浮かべながら、自分のために与えられた部屋の中にいることに心底ほっとする。
(追い出されたら、どうしようかと思った)
 そして思い出すのは、昨日の自分の姿だ。
(――……)
 子供のように泣いてしまった。大泣きだ。
(最悪)
 最悪よと二度呟いて、着替えようとシアンは起き上がった。



「決めるのはシアンだというのに、私にそんな話をしてどうするつもりですか?」
「いや……その……」
 朝から聞かされた話に、パキラートは不機嫌そうに対応していた。
(相変わらず、都合のいい人間だね。それで償おうとでも? 言う事はまともだから余計にたちが悪い)
「……わしには、会いたくないだろう」
「そんなんでシアンを城に連れて、どう世話をするつもりなのですか? 言っておきますがあの子の知人などいませんよ。会えないのに誰知らない場所で一人きりで放置するつもりですか?」
「そんなつもりではない」
「ではどういうことですか? これ以上あの子を追い詰めたいんですか?」
「そうではない! ただ」
「ただなんですか? 今更、あの子に対して何を償おうとしているんですか?」
 言葉を失ったのか、シスルが動きを止める。それを、パキラートはいらだちを隠さずに見つめた。
(だから嫌いなんだ。親なんて)
 子に会った親は感激し、感動し、歓び、感謝し――そして言うのだ。私は親だと。
 もう、子に会う前にあった態度は消えている。会えたという安心の下に忘れる。
「親だからといって、一人の人間の人生を邪魔はさせませんよ」
 死んで親から開放された子を、死してなお親という呪縛に縛らせようというのか。



 のろのろと足を進めて、途切れた廊下の先の階段にはっとする。なんてことないはずなのに、とても怖い。
(怖い)
 たった一階分は、こんなにも遠く、怖く、長いものだったろうか。
 手すりもない。あるわけない。壁に手をついて、そっと足を下ろす。下におりないと、話にならない。
(いち、に)
 そっと、ゆっくりと慎重に足を下ろす。右足に体重がかかった瞬間、足が悲鳴を上げた。
 ぐらりと傾く。
(おちっ)
 あわてて、体をひねって廊下に向ける。とっさについた手首も悲鳴を上げる。
「つっ――!!」
 痛い。



 かすれるような声が聞こえてきて、足を止めた。兵に指示を与えている間に、国王は魔術師の下に行ってしまった。
 といっても、広くない屋敷の中。
 行き先はひとつだと足を進めていた途中だった。
「レグホーン様?」
 レグホーンの頭をよぎったのは、昨夜自分の姿を見て、青ざめたシアンの表情。
 すっと、視線を向けた先。そこには二階に向かう、階段があった。
「レグホーン様!?」
 一歩、彼は踏み出した。


「いた――」
 足を庇って、どんどん傷が増えていく。
「もう、ばかみたい……これじゃ」
 治るものも、治らないじゃ
 言葉が、途中で止まる。
 階段を上がってきた人物の姿に絶句する。
「……――」
 相手も、口を開いて閉じてしまった。何を言ったらいいのか、なんと声をかけたらいいのか。
 ある距離にまでレグホーンが足を進めた瞬間、シアンの体が後ずさった。それを目に留めたのか、レグホーンの足が止まる。
 怖くても目が離せないのか、シアンが震える。
 しばらくして、ひとつの可能性に思い当たったのかレグホーンが言う。
「下へ?」
 その、階段を下に向かって目で追うしぐさに、シアンも短い言葉の意味を理解した。
 だけど声にはならないのか、躊躇ったあと小さく頷くだけで答える。
「失礼」
 レグホーンが腕を伸ばすと、いやだというようにシアンが逃げる。
「……手を貸します。本当はパキラート様がよろしいのでしょうが。今陛下と話をしています」
「師匠と?」
 とっさに、言葉に反応した。
「はい。失礼、姫」
「やっ」
 腕をふったはずなのに、当たらない。目を閉じたシアンを抱き上げて、レグホーンは階段を下る。
 伝わってくる振動と、宙に浮いた体。
 シアンが目を開けて、見上げた先。すぐそらす瞳。
「レグホーン様! ――姫様!?」
 下にいた兵士がほっとしたようにその姿を見つけて、シアンを見て悲鳴を上げる。
 それは無視して、レグホーンは話しかける。
「どちらまで?」
「……ぇ?」
 シアンはほうけたように顔を上げる。意味がわからないと首を傾げる。
「その足では、辛いでしょう」
「!」
 

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