月の雫

 雪に恋した。太陽の話は知っているね?
 その太陽を見つめる、月のお話をしましょう。


 天候を呼ぶもの(ウェザー)が殺された世界で、残されたのは太陽と月でした。
 太陽が輝いている時、月は姿を現しません。いえ、本当はいつも、見守っているのです。太陽が隠れて眠りに付いた夜でさえ、月はすべてを見ているのです。
 月(ルナ)は、いつも太陽(サン)を見ていました。サンが雪(スノウ)に恋した時も、ウェザーが殺されていく時も、スノウが消えた時も、いつも、サンを見ていました。
 ルナは、サンの影とも言える存在でした。サンがいなければルナはいない。でもサンがいると、ルナは影となって隠れてしまう。
 ルナはいつでも、サンを見つめ続けました。その視線が、深く淡い思いを持ち始めたのは、もういつからかわかりません。
 そういつしか、ルナのサンを見つめる視線、それは、憧れから恋心に代わっていたのです。
 でも、サンがいる限りルナは輝けません。でもサンがいないとルナは存在できません。
 いつも、いつでも、ルナはサンを見つめ続けるだけ。
 いつも、いつでも――
 ルナはサンがスノウに恋したこともすぐ、気が付きました。そのスノウはレインと恋仲である事も、知っていました。
 だけど、いったい何ができたことでしょう。
 そして、今や、ウェザーは死に絶え、スノウは大地に解け消えてしまいました。
 スノウの存在を信じて、大地を照らし続けるサンだけを残して。
 ルナはただ見つめるだけ。見続けるだけ。――すべてを。


 太陽が照し続けるのに疲れきって、眠る時。人々が夜と呼ぶ時間。
 ルナは、太陽(サン)が照らし続けてひび割れた大地を見下ろします。
 雪が溶けていくのも、ルナは見ていました。
 大地に流れる水が枯れてゆくのも、ルナは見ていました。
 そして、大地にひびが入り、砂となってしまうのも、見ていました。
 毎晩、毎晩、ルナは大地を見つめ、そして涙を流しました。
 自分は、見ているだけ。そして、サンの心の中はスノウでいっぱい。それなのに、スノウはいないのです。もう二度と、サンの心がスノウから離れる事はないでしょう。
 スノウは、良くも悪くもいなくなってサンの心をしばったのですから。
 悲しみと、憎しみが混じって、ルナの心を襲うのです。
 静かに、消えゆく命を見つめます。
 ルナの涙の雫は雨となって、大地に降り注ぎました。
 静かに、霧雨のような雨でしたが、それは、人々を潤す、たった、ひとつの手段でした。
 もう、大地に天候などいらないと言った人々は、水を求めて、嘆き、苦しみ、死んで行きました。
 そして今では、かつて先祖がそんな事を言ったなど、誰も知りません。
 生き延びた人々はわずかで、細々と生活しています。
 照らし続ける太陽に、怒りを静めよと祈ります。雨を施す月に、感謝しますと祈ります。
 太陽と月はすれ違ったまま、太陽は探し続け、月は泣き続けました。

 愛しいあなた――どうして?


 ある晩、一匹の小鳥が木の枝に止まって休んでいました。
 すると、突然、頭の上に水の塊が降ってきたのです。
 雨でも、粒でもありません。水の塊です。
 可愛そうに、濡れるのが嫌いな小鳥はびっしょり、濡れてしまいました。
「ルナ! 何をするんだい!」
 小鳥は、それが自分を潤す恵みの水であると、考え付きませんでした。
 水はあとからあとから落ちてきて、小鳥はもうこれ以上ないほどびしょ濡れです。
「ルナ! いつまで泣いているんだ!」
 小鳥の強い口調に、ルナはびっくりして泣くのを止めました。でも、それも一時。
 また涙を流すルナに小鳥は怒りを忘れてしまいました。
「ねぇルナ。何がそんなに悲しいの?」
 でも、その日、ルナは何も語りませんでした。


 それから何日も、小鳥はルナのもとにやってきました。
 でもルナは、何も語りません。そう、サンのことも、スノウことも。
 ただ小鳥はルナの傍に立って、歌う事にしました。



 あれからずっと、サンはスノウを探していました。
 干上がっていく事を訴える水の声も、ひび割れていく大地の声も、喉の渇きを訴える人間の声も、聞こえません。
 彼はただ、スノウを探し続けました。
 その雪は、彼の輝きによって溶けてしまう、ものだったとしても。
 ある時、サンは夢を見ていました。
 それが夢なのか現実なのか区別が付かなくなったころ、歌が聞こえてきました。
 歌は、優しく、また悲しいものでした。
 その歌は、誰かのことを歌っているようでした。
 それは“愛する人を求める”そんな歌でした。
 その歌は、実はとても有名で、小鳥は意識して歌ったわけではありません。でも、ルナの涙は、止まらないのです。
 そして、サンの心にも、その歌は響き渡りました。


「君か?」
 ルナが彼の瞳から消えてしまい、真昼の輝きの下。のどの乾きを訴えていた小鳥は驚きました。
 まばゆい光が、自身の目の前にあるのです。
 からからののどを、さらに乾かすようでした。
 さらに驚いたことに、小鳥に問いかけてきたのはその渇きの原因だったのです。
「サン!!?」
 驚いた小鳥は、かすれた声で叫びました。
「君が、歌っていたのかい?」
 サンは、自分の名を呼ぶものを懐かしそうに見つめました。そういえば、もう、誰も、自分のことを呼んではくれません。
 愛おしいものを呼ぶためでも、憎しみをこめた声でも、うれしそうに笑うわけでも、悲しみに泣くわけでも、なく。
 かつて、自分に命令を下したもの達はもう、干からびました。
「僕は歌う。あの人が泣き止むまで」
 小鳥はそう言って、そして――その美しい歌を歌うのどまで、焼かれて死んでしまいました。
 サンは、自分が長く居座りすぎてしまった事を、知りました。
 改めて見渡してみると、大地はひび割れ、荒野と化しています。かすかに、水を求める声が、かすれた、消え入りそうな声が聞こえてくるようでした。
「もう、いない」
 レインは。
「もういないんだ」
 スノウは。
 サンは、すべてを知ってしまいました。
 この世界の現状を、そして、彼女(スノウ)の末路を。


 昼間が、静まり返っていた事を、ルナは知りません。
 いつものように大地を照らして、異変に気がつきました。
 小鳥が、大地に横たわって死んでいます。それは、暑さに焼かれて死んだのだとすぐにわかりました。
 ――ぁあ、ルナはすべてを知ってなお、サンを愛する自分に涙を流します。
 小鳥を殺したのがサンであっても、自分は彼を憎めない事を知っています。だからこそ。
 小鳥が死んだ事を、本当に悲しめない事に嘆きます。
 それほどまでに、愛しているのに。小鳥がもし生きていたら、悲しい歌を歌い続けた事でしょう。


 そして――


 サンは静かに、大地を見つめました。枯れて乾ききった大地を、見て。人々の嘆きを、聞いて。
 最後に、自分の目の前で死んだ鳥のことが、忘れられません。
 彼は、誰のために歌っていたのでしょう?
 その答えを、サンが知る事はできません。
 サンは、すべてを熱く、眩く照らすのをやめました。静かに、大地に光を送ります。
 光を送る事をやめる事はできません。彼が照らすのをやめる時は、彼の命が尽きるときです。
 ただ、すべてを照らし、彼女を探すのをやめました。


 ルナは泣き続けていました。
 その涙は、いつしか大地を流れるようになりました。それは、サンが川の底にいるはずだとスノウを探さなくなったからです。
 大地に静かに降り注いだ水は、次第に大きくなり、再び川を流れ始めます。
 人々は、喜びました。

 サンは、この水の流れを見て驚きました。
 川の水はどこから流れてきたのか考えました。けれど、彼に答えは出ません。
 水は、どんどんどんどん増え、次第に川は大きく、海となりました。

 サンは静かに大地を照らしました。
 今度こそ、間違わずにこの水の流れの先を見つけようと思いました。この水の流れが生まれた場所を探すことにしました。

 ルナはただ涙を流します。
 自分の涙が川となり海となっても。だって、いくら大地を水が潤そうと、彼女の願いはちっとも叶わないのです。
 喜ぶのは大地に住む人と動物。
 あの歌を歌う鳥は、もういません。
 サンは、ルナのことを知りません。
 ルナはもう、泣く事しか残されてません。
 いっそ、世界が水で埋まってしまえば、サンは自分を見つけてくれるだろうかと考えます。


 ある日、サンは海を眺めていました。
 沈んでいく自分の光で赤く染まった海を静かに眺めていました。
 そのせいで、沈む時間がいつもより長くかかりました。赤く染まった海は、とても美しかったのです。
 そしてサンは、見たのです。
 静かに空の端に上る、白く輝く美しい月を。
 涙を流す、月(ルナ)を。

「どうして、泣いているんだい?」

 ルナは驚きました。サンがいるのです。サンがいて、自分に声をかけてくるのです。はじめ、他の誰かに声をかけているのかと思いました。
 けれど、サンの目に映っているのは、他でもない自分なのです。
 その日、ルナは何も言えませんでした。
 サンは、ただ静かに海の向こうに沈んでいきました。

 サンは、すべてを知ったような気がしました。
 あの水の、流れのはじまりを知ったような気がしました。
 あの小鳥が言ったあの人は、月であるのだとわかりました。
 けれどサンには、ルナがなぜ泣いているのか、検討も付きません。

 それから、夕刻の短い時間、サンとルナの逢瀬ははじまりました。
 本当は、朝方も出会えたのですが、ルナは嫌がりました。けれどサンに出会えるのは嬉しくて、夕刻の逢瀬は忘れられません。
 サンは、スノウを求めて大地を干からびさせたあの頃とは違い、穏やかにルナに話しかけました。
 ルナの涙は、サンの心に、浸み込んだのです。サンの心に、忘れられない、何かを。
 ルナは、サンの言葉に答えられませんでした。だってルナは知っているのです。サンがどれほどスノウを愛していたか。そのために大地が、どうなったのか。それほどまでにサンがスノウを愛していたと、知っているのです。
 ルナの心は、もう、弱りきっていたのです。

 サンはあきらめませんでした。短い間、ほんの少しの言葉を、ルナにかけます。
 サンは、誰かに話しかけるほど多くの言葉を、知りませんでした。
 こうやって誰かに話しかける時、いったい何を話せばいいのか、検討も付きません。
 ある日、サンは言いました。何も答えないルナに怒るでもなく、静かに。本当のことを言いました。
「なぜ、泣いているのですか? あなたの流した涙は海となって、僕の心を呼び戻してくれました。僕はもう少しで、この星を殺してしまうところだったのです。それを救ったのはあなたです。だから、せめて、その涙のわけをおしえてもらえませんか?」
 この日も、ルナは何も語りませんでした。


 次の日、はじめてルナはサンに話しかけました。
「小鳥の事を、覚えていますか?」
 サンは、とても苦しそうに言いました。
「はい――僕が、殺してしまった」
「あの小鳥が歌っていた曲を、覚えていますか?」
「ええ」
 サンも、ルナも、よく覚えています。
「私の心は、あの歌と同じなのです」
 サンは、何も言えませんでした。

 それからも、夕刻の二人の逢瀬は続きました。何を話すわけでもなく、お互いに互いを瞳に映すのです。

 しばらくは、時間だけが過ぎていきます。過ぎ行く時間の中で、ルナの心は少しずつ癒されていくのです。
 一方、サンにとっても、考える時間はたっぷりあります。今、自分にできる事は、あの泣き続けるルナを、見つめる事だけなのだと。静かに空を、ルナを包む事なのだと。
 ひび割れた大地をもとに戻す事には、他でもないルナの助けがいるのだと。
 懸命にサンは話し続けました。スノウ事、レインの事、ウェザーの事、その昔自分が、犯した事すべて。
 もう、サンには残されていなかったのです。取り繕うものですら。
 彼は、自分のしたことすべてを、ルナに話しました。どれほど自分が、愚かであったかということ。
 そして今、自分に、何が必要であるかという事。そう、月(ルナ)が太陽(じぶん)に必要なのだと。

 短い逢瀬は、繰り返されました。何度も、何度も。
 静かに、欠けた月は満ちてゆきました。


 そして、ある夕刻の逢瀬で、ルナはサンに言いました。
「私は、あの歌と同じなのです。愛する人を――あなたを、求めておりました」



 長い長い時を経て、海の水は太陽の光によって蒸発します。空にはまた雲が生まれるのでしょう。雲は雨と雪と雷を生みます。そして虹も、風も、嵐も、霧も雹も突風も夕立も生まれるのでしょう。
 空を覆う厚い雲の向こうで、サンとルナが出会うのでしょう。
 空に彼らしかいなければ、できない事ができるのでしょう。
 ルナの涙から生まれた海。その海から生まれた雲の向こう。
 空の向こうで、二人は静かに寄り添うのでしょう。


― 終 ―





Free Will

背景素材 STAR DUST
2009.02.04